多摩川の河原では、昔あちこちで砂利採取が行なわれていたそうです。 砂利採取では最上流と思われる青梅沿線にも、数多くの砂利採取用の側線がありました。 別ページで紹介している羽村山口軽便鉄道も、青梅線には接続していませんが、同じ目的で敷設されたものです。
ここは買い物などで私も頻繁に通る場所ですが、区画整理により大きく道路状況が変わってしまったためか、それらしい形跡は今の所なにも見付けていません。 青梅線から分岐して奥多摩街道とクロスするあたりまでは、それらしいカーブした道が存在しますが、跡かどうかは確証が得られません。
鉄道の終点からはインクラインらしきものが崖下へと伸びていましたが、ここらは現在マンション群が林立しています。 河原は草むらに覆われており何かありそうな気配はしますが、まだ足を踏み入れるには至っておりません。
その後、「河辺郷土史資料集」(河辺老壮大学郷土史研究部会編)の中にこの貨物線の記述があるのを発見しました。 それによれば、河辺川原には「昭和石材(株)」の砂利取船が2隻あり、そこから出た砂利をトロッコが「自動機関車」に牽引され、千ケ瀬川原~河辺川原~トロ専用橋を渡り、傾斜したトンネルを通り「昭和石材河辺工場」に運ばれて加工され、そこから貨車に積まれて東京方面へ運ばれたそうです。 そしてこの「昭和石材河辺工場」の跡地は、現在青梅マラソンのゴール地点でもある「青梅市総合体育館」となっているとの事です。
小作 ここも、鉄道部分は区画整理によって全く残っていません。 唯一、鉄道の終点部が現在羽村浄水場となっていますが、門の間から覗くとその敷地内の道が、それらしいかな~という雰囲気で崖の方へと伸びています。
(写真:下)浄水場裏からインクライン跡を見下ろす。下の道は奥多摩街道。
浄水場から先は「トワイライトゾ~ン MANUAL」でも紹介されましたが、インクライン跡が残っています。
奥多摩街道の下をくぐり、住宅地の中をスキーのジャンプ台の様な斜面が、怪しく川まで続いています。
地図によれば、さらにその先で川を渡り、対岸をしばらく上流へと伸びていた様です。
(写真:下左)小径の上を横切るインクライン跡。
(写真:下右)対岸から望む。(矢印部が斜面)
福生駅から線路際の道路を羽村へ向かって少し行くと、左手に、チェーンが入口にかかった細長い空地が現れます。 ここは、すぐ裏手にある大型書店の臨時駐車場となっていますが、きれいにカーブを描いており、しかも砂利敷で(まさかバラストではないだろうが)一目で廃線跡と判ります。
(写真:左)緩く右カーブする駐車場。写真奥の方が青梅線。その駐車場の先は跡が途切れているのですが、駐車場出口に立って遠くを見通すと、新奥多摩街道の向こうに駐車場の延長線上に位置するまっすぐな道があるのがわかります。 その道は学校の前を通り、ゆるく下って行って(旧)奥多摩街道へ突き当たります。
街道を渡った先からは遊歩道となっており、すぐに玉川上水を短い橋(加美上水橋という最近の物)で渡り、林を抜けて多摩川へと飛び出します。 この辺りは築堤となっており、川を左に見ながらゆるく右にカーブして下って行きます。 左手築堤の下には芝生の広がる公園があり、ここに寝転んで築堤を見上げていると、今にも貨物列車が走って来そうな雰囲気でした。
(写真:右)加美上水橋。当時の橋台らしきものはなかった。右カーブを終えて川とほぼ平行になり、しばらくまっすぐ下って行きますが、その先で正面に福生市の運動施設があって、道は左にクランクしてその脇をすり抜けて行きます。 おそらく、線路はまっすぐとこの敷地の中を通過していたのだと思います。
その後しばらく、道の右手には怪しげな細長い草地が平走しておりました。
踏み込めば何か発見出来そうな感じもしましたが、かなり草ぼうぼうでしたのでチョットためらってしまいました。
線路はこの辺で終わっていた様子ですが、その先道はさらに羽村大橋の下を潜って、桜で有名な羽村の堰まで続いています。 羽村山口軽便鉄道からのインクラインがあったのは、このあたりかと思われます。