線路平面図を探る - 2

相模川尻駅

まずは起点となる相模川尻駅だが、参考書で駅予定地とされた三叉路付近とは若干ズレており、もう少し奥まった場所に描かれている。 すぐ隣りは当時の役場で、今もこの場所には相模原市の城山総合事務所が置かれている。 そして駅を出た線路は久保沢街道と斜めに交差するのでなく、そのまま北東方向へと離れていってしまうのだ。

(以下4点、相模原市立博物館所蔵「相模川尻相原間線路平面図」より) Photo 相模川尻駅付近(クリックで拡大)

相模相原駅

相模川尻駅からしばらく北東へと直進した後、線路が右カーブを描いて境川とほぼ平行な向きになると相模相原駅に到着する。参考書では横浜線の向こう側とさ れていた駅だから、同じ相原村内とは言え随分と位置が違う。 このあたりが村の中心部だったのだろうか。 敷地はさほど大きくなさそうなので、ここはおそらく列車交換不可の棒線ホームだろう。

この駅の構内で、起点から 10C, 20C…70Cと進んで来たチェーンの表示が 1M(マイル)に繰り上がる。 ヤード・ポンド法では 1M(マイル)=80C(チェーン)だからである。 駅の位置は 1M03C50L(1マイル3チェーン50リンク)、1Lは1/100Cだからこの辺がまたやっかいだ。 キロじゃないので、キロ程とは呼ばないのだろうが。

Photo 相模相原駅付近(クリックで拡大)

相原駅

ここが一番の驚きだった。 何しろ、川尻から来た線路と鑓水方面からの線路を集めてスイッチバック形式の構内となっているのだから。 そもそも参考書にはこの相原駅に関する記述がなくイメージとして湧いていなかったのだが、これだと両方面を直通する電車は不便を強いられそうだ。 相原から一の宮方面が全線開通した暁には、川尻~相原間を支線的な扱いにする考えがあったのかも知れない。 あるいは当面、両方向から来た電車を横浜線で八王子へ乗り入れる、何て計画もしていたのだろうか。

Photo 相原駅付近(クリックで拡大)

相原駅~寿橋付近

相原を出た南津線の線路は、築堤を登りつつ横浜線の上をオーバークロスする。 横浜線の線路も橋本へと向かって曲線を描いているので、それに追いついて乗り越さなくてはならないから、勢い急カーブになる。 カーブ半径は 8Cと記載されているので、換算すると 160m位、これは当時の鉄道法令で最小曲線半径になるようだ(西武新宿線高田馬場の山手線を潜る部分がR158)。 半径線部分に記載されている記号で「BC=」は Begin Curve、「EC=」は End Curve の意だろうか。 横浜線との交差地点は奇しくも、川尻から直線で進んで来た場合とほぼ同じ場所になった。

Photo 横浜線交差部(クリックで拡大)

その先で線路は香福寺の境内をかすめて八王子街道(R16)の広い通りを渡り、橋本の市街地北部へと進むが、このあたりは民家を避けるラインどりに苦労しているようだ。 どうせなら、相原から北に線路を逃がして鑓水へと向かった方が距離が短く用地確保も容易だったと思われるが、ひょっとするとこの区間にもう一駅作る目論見があった?とも思わせてくれる線形ではある。

(以下5点、相模原市立博物館所蔵「橋本鑓水間線路平面図」より) Photo 橋本北部(クリックで拡大)

寿橋付近~鑓水

河川改修により橋自体は現在少し南側に移動しているが、寿橋の通過ポイントも角度は違えど想定とほぼ同じ場所。 だがここから先は私の予測に反し、線路は久保ケ谷戸あたりから谷筋の右手に取り付いて登って行く計画だったようだ。 線路図に描かれている道路が今も住宅地の中に残っているのは感慨深い。 しかし登り着いてサミットを過ぎたあたりは、ニュータウンの大規模な造成により地形そのものが変わってしまっている。 現在は立入禁止で入る事の出来ない未整備地だが、この付近まで線路敷設の工事が進んでいたという話もある。

Photo 久保ケ谷戸付近(クリックで拡大)

鑓水駅

丘陵を越えた線路は緩く右カーブした後、いよいよ核心の鑓水地区へと入って来る。 由木街道も大栗川も現在は当時と様子が大分変わっているが、裏山で線路敷の工事をしたという場所は見事に線路図と位置が重なった。

Photo 鑓水付近(クリックで拡大)

だが、その先の鑓水停車場は参考書での想定とは少し位置が異なるようだ。 終点の場所(画像の50Cの位置)は道路の少し北側にあり、南を大栗川が流れる図になっている。 その後改修されて今の位置を流れる大栗川の上あたりが停車場予定地(画像EC=表記の55Cの文字のあたり)と認識していたのだが、ここも計画に対してその後の調整があったのだろうか。 この辺はどうも今一つ分からなくなって来た。

Photo 鑓水停車場付近(クリックで拡大)

鑓水駅は起点からの距離が入っているのみで敷地の記載も無く、他の駅に見られた「○○停車場」の文字も書かれていない。 関係者の多い重要駅な筈なのに、あっさりとした図で何となく拍子抜けがする。 相模川尻からの距離は4M50C、ここまでで延長 7.4kmほどとなる。 線路平面図はここで終わっており、この先、鑓水~一の宮間の物は今のところ発見されていないが、点線となった線路の延長上には全通の思いを込めた「至一宮」の文字が見える。

以上、南津電鉄の計画ルートをその線路平面図から追ってみた。 昭和初期の頃の資料という事でもう少しアバウトなものかと考えていたが、思いのほか詳細な設計図だったのには驚いた。 おぼろげだった南津の計画も、こうして具体的な図面を見ると俄然現実味を帯びて来るのではないだろうか。

もちろん、南津は基本的に未成線であるから、一部の工事区間を除いてそもそも線路跡は存在しないし、その計画も色々な段階があってどれを以って計画路線と言うのかは多分に不確定だ。 「幻の相武電車と南津電車」を著したサトウ氏も大変精力的に沿線各地をまわって関係者から口述の証言を得ているので、ある段階での計画を把握してそれをベースに本を書かれたものと考えられる。 経由するルートも地元との調整を経て練り直され、変遷を繰り返したのだろう。 その証拠にこの平面図にも何箇所か、赤ペン?で書き込んだ議論の跡が見られる。

Photo 寿橋付近

矢印部分等、図面の何箇所かに別ルートを検討したような痕跡が残っている。

その辺から類推すると、ここに載っているのはおそらく会社側が各村々に提案した当初の案で、ある意味では電鉄として目指していた理想の姿を現していると言えるのかも知れない。 そんな線路を疾走して行く南津電車の姿を想像しつつ、この稿はひとまず終える事としたい。

今回、資料撮影にご協力いただいた相模原市立博物館に感謝申し上げると共に、この貴重な図面が少しでも多くの方々の目に触れる機会が訪れる事を願ってやまない。