学生時代、北陸で鉄研の夏合宿があった時に初めて下車した糸魚川駅。 先日、富山方面から北陸本線で移動した際に、大糸線の乗り継ぎに時間があったので久しぶりにここで途中下車をしてみた。 乗り換えでは何度も利用している糸魚川だが、改札を出るのはあの時以来、実に38年ぶりだ。 当時の駅の佇まいはもう忘却の遥か彼方であまり記憶にないが、駅前からトボトボ歩いて海を見に行ったのをメモを見て思い出した。

糸魚川11:50着。
503Dは、ここで松本行白馬と青森行しらゆきに分かれる。
分割作業をしばらくながめた後、駅を出て海を見に行く。
意外に近かったが、海の手前に国道が立ちはだかる。
地下道を通って海側に出る。
すごく静かな海だ。
波の音もない、海独特のにおいもしないのが不思議な感じがした。
駅前食堂で昼食。
冷房がきいていたので長居してカレーライスと氷イチゴを食べた。
久しぶりで落ちついて食べられた。
その後駅のまわりを1回り。
もう東洋活性はどうでもよかった。

そうだ、この時の目論見は、単独行動で駅近くにあった東洋活性白土の小型蒸気を見にゆく事だった。 でも当時あまり深い興味もなかったとみえ、暑さにくじけたか、あっさりとパスしているのが何とも残念である。

今回降りてみてまず目に入って来たのは、すぐ裏手にそびえ立つ新幹線の高架ホーム。 開業を一年後に控えて外殻は既にほぼ出来上がっている様子がうかがえる。 架線ももう張られているようで、試運転も始まっているらしい。 在来線の方も新しい橋上駅舎となり、通路が新幹線口に繋がる準備も出来ている。 改札を出た所のコンコースでは、何やら催し物の準備が始まっていた。 そこに設置された看板には、開業一年前のカウントダウンイベントとある。 会場設営の人たちでざわついた駅を出ると、駅前には小さなロータリーに数台のタクシー。 糸魚川は翡翠の街として知られており、それを象徴したお姫様のブロンズが目の前に建っている。

信号を二つ三つ経て海に突き当たる駅前通りにも、何やらテントが並んで地域の物産などを売っていた。 その呼び込みの声に送られながら5分ほど歩けば、もう家並みは切れて目の前には国道が立ち塞がる。 その向こう側が海であるが、防波堤に遮られていてここからは水平線が見えない。 あまり天気は良くなく、強い風に混じって時々パラパラと雨粒が頭に降りかかって来る。 国道には大型トラックがビュンビュンと行き交い、危険なので地下道で向こう側へ渡るようになっている。 メモにも地下道を通ったと書いてあるが、目の前にあるそれはあの時に利用したものだろうか? 道路下の薄暗い通路を抜ければ、そのまま海側にある展望台へとコンクリートの細い階段が続いている。 記憶に残りそうな奇抜な建築物なので、おそらく前回来た時には展望台はなかったのかと思う。

小さなデッキに上がるとそこには写真パネルが設置され、右手は佐渡ヶ島方面、左手は能登半島と書いてあった。 残念ながら今日は曇天でどちらも良く分からないし、何しろ風が強くて長居は無用だ。 海は天気のわりに穏やかだが、目の下は巨大な消波ブロックで覆い尽くされていて海岸線もなにも見えない。 ここで殺人事件でもあってあのブロックの間に死体が落ちたら、たぶん誰にも発見されないだろう… なんて物騒な妄想を抱いた。 展望台を降りようと階段へ向かうと、入れ違いにリュックを肩にかけた若者が一人、下から上がってきた。 年の頃は大学生くらいか? だとしたら、38年前に私が訪れた時の年齢に近い筈だ。 彼は確か北陸本線の列車内で見かけたので、私と同じく大糸線の時間調整でもしているのだろう。

若者を残して階段を降り、短い地下道を歩きながら考えた。 彼も何十年か後に再びここを訪れる機会があるだろうか? そして、やはりそこで出会った旅人の姿に、自分の若かりし頃を思い出すのかも知れない。 昔、大学生のころ北海道を一人で旅した時に、道東の列車で、乗り合わせた年配の男性に声をかけられた事がある。 いろいろ話して別れ際に、「ユックリといい旅をして下さいね」としみじみ言われ、いたく感激したものだ。 思えばもう私がそんな年代の域に達しているわけで、若い旅人にはやさしくしなければいけないと思う。 彼にはあとで、大糸線の車内で声でもかけてみようか、とボンヤリ思っていた。

駅の近くまで戻ってくると、駅前通りと交差する横道に小さな商店が並び、その上には雪国ならではの雁木がかかっていた。 金属的なアーケードとはまた違うその素朴な造りを味わいつつ、人影の無い50m程の距離をゆっくりと一往復してみた。 洋品店や文具店の店頭には入学を祝う手描きのポスターが貼ってあり、そう言えばもう新入学の季節なのだなと改めて気づく。 硝子ごしに覗いた店の奥には、3月というのに赤々と石油ストーブの炎がゆらめいていた。 そぞろ歩いて駅前まで戻って来たが、前回来た時にカレーを食したのはどこだろう? 何となく駅を背にして通りの左側にある食堂だったような気がするが、これまた良く思い出せないのが情けない。 現在、駅前の左手には小さなビルがあって食べ物屋が何軒か入っているので、当時の食堂が建て替えられたのかも知れない。

改札へと向かってピカピカのエスカレーターで上って行くと、目の前には黒山の人だかりが見えて来た。 熱気のみなぎる通路に「列最後尾」の札が見えるが、先程の準備が済んで何かの行事が始まるところなのだろう。 切符を見せて改札を抜ける私の背後で大きな拍手が起こり、その列の奥のほうで誰かの挨拶が始まったようだ。 ホームに降りてしばらく待つと、ほどなく大糸線の列車がやって来た。 数年前に南小谷からここまで乗ったのは、国鉄色の重厚なキハ52が最後の活躍をしていた頃だ。 今は軽快なキハ120がこの区間の主となっている。 やがて定刻となり、座席の半分ほどが埋まったキハの単行はユラユラと糸魚川駅のホームを後にした。 件の若者はどこへ行ってしまったのか、この列車には姿を現さなかったのである。