photo photo banner
富津岬の軍用鉄道 岬部編
photo
Photo Photo Photo Photo Photo

大通りにストンと出るとそこが県立富津公園の入口。 道路の北側はプールや宿泊施設等が並んでおり、今は跡形もないが、機回しか列車交換の為と思われる側線があったのはこのあたりだ。 一方の南側はちょっと見は緑濃い公園だが、掘割に囲まれた要塞の遺構が今に残るエリアになる。 線路は車道に沿ってもう少し伸びていた筈なので、何も残ってはいないだろうがとりあえず先へ進もう。 大型の観光バスが行き交う岬のメインストリートをトロトロとしばらく走って行くと、彼方に白い柱の林立する展望塔が見えて来る。 そこが岬の先端で、入口からもう少し距離があるかと思っていたが意外にあっけなく着いてしまった。

そう言えば、私が小学生の頃に見た地図帳に載っていた富津岬は、もっと細長く沖合いまで続いていたような気がする。 そう思って調べて見たのだがやはりその通りで、関東大震災の時に一帯の土地が隆起して以降、長らく第一海堡まで真っ直ぐに陸続きとなっていたそうだ。 その後、岬の北側に広大な埋立地が出来てしまったので、おそらくこの事により小糸川からの砂の流れが妨害され、結果として岬が細ってしまったに違いない。

地図:国土地理院発行1/5万地形図「富津」昭和19年 部修
photo
写真:国土情報ウェブマッピングシステム「富津」昭和49年(CKT-74-14)より

岬先端にそびえ立っているのは五葉松を形どったという明治百年記念展望塔。 自転車を降り、そのてっぺんまで登ってみた。 風がだいぶ強くて高所恐怖症ぎみの私は少しヒヤヒヤしたが、そこから見る東京湾の眺めは最高だ。 前方遠くに第一海堡、第二海堡が浮かんでいる。 ちょっと驚いたのは、現在の地図上では繋がっていない筈の岬の先端から第一海堡の間が、干潮のせいなのかほぼ陸続きになっていた事だ。 北側の海岸が埋め立てられ、その分、少し南からの砂の流れに押し寄せられたような格好で、岬と海堡の間を繋ぐような湾曲した浅瀬が形成されていたのだ。

photo

振り返って今来た道の方を遠望してみると、緑に覆われた細長い岬の両側に白い波が打ち寄せている。 軍用軌道はあの真ん中あたりを通っていたわけだな、等と想像をたくましくしながら眺める景色に興味は尽きない。 ほんとうは、お握りでも買って来てこの展望台で食べようかと考えていたのだが、実行に移さずに良かった。 景色はいいが思いのほか高所感があって風も強く、私にはとてもそんなのんびり出来る場所じゃない。 第一、物見客が次々やって来るこの狭い場所でお弁当を広げるのは、少々… いや、かなりひんしゅくものだろう。

photo
Photo Photo Photo Photo Photo

階段を下り、再び自転車に跨ってコースを折り返す。 途中で左手に富津岬荘の看板があったので、そこを目印として建物脇から海岸へと抜け出した。 裏手に築堤状の砂利道があるが、地図を重ね合わせてみると、どうもここに本線から分岐する形で引込線が引かれていたようなのだ。 昭和に入ってからの事だが、フランスから列車砲が一門だけ輸入されて陸軍の「九〇式二十四糎列車加農」(加農はカノン砲の事)となり富津岬で性能テストが行なわれたというので、ひょっとするとこのあたりに留置されていたのかも知れない。

列車砲というのは、鉄道貨車の荷台に超大型の大砲を設置した移動式の兵器である。 道路よりも重量物を運ぶのに適した鉄道の長所を利用した武器だが、反面、線路の無いところへは持って行けないという短所がある。 この、日本で唯一だった列車砲、結局この地で性能試験が行なわれただけで国内では実戦に使われず、太平洋戦争開戦前後に遠く満州の地へ運ばれて行ったという。

引込線跡の海岸側先端あたりには、砂に埋まった鉄人28号の頭のような建物が、今でも海の方を向いてひっそりと残っている。 これは一見トーチカのようにも思えるが、射場から打ち出された試験砲弾の着弾状況を監察するために作られた監視壕だそうだ。 潮干狩りの人達が多く繰り出している平和な渚の片隅で、人知れず、こうしてじっと海を眺め続ける遺構が存在するのが富津岬の今の姿だ。

photo
Photo Photo Photo Photo Photo

一旦車道に戻って岬の反対側も見学しておこう。 ここには掘割の中に島状になった「中の島」と呼ばれる富津元洲堡塁砲台跡が残っている。 公園の芝生でのんびり昼寝する人の脇を通り、橋を渡って中に入って行くと、島の周囲は高い城壁状の土塁で囲まれていて少々蒸し暑かった。 石段を登ると堀の向こうに海岸の松林、その背後には東京湾の青がチラリと見える。 所々に赤煉瓦の倉庫や石で出来た銃座のような遺構も残っているが、特に説明板の類もなくそれらが何を意味するのかは帰って来てから調べて分かった。

昔の地図によると、この砲台跡の前付近から南側の海岸へ向かうトロッコ軌道のような線が見えている。 その線を追って公園の外れあたりまで行ってみたが、軌道の終点と思しきあたりには特に何も… いや、あった!  藪の中に何やらおどろおどろしい姿の遺構が崩れかかって残っている。 岬の中心部からは少し離れている場所なので、資材運搬用にここまでトロッコが敷かれたのだろうか。


より大きな地図で 富津 を表示

南側の海岸に出てみると、サーファーや浜辺で遊ぶ行楽客が初夏の午後を楽しんでいる。 だがスピーカーから音楽が流れ、波は砕けて豪快な音を立てるものの、明るい風景とは裏腹に今ひとつ浮かれた気分になれない自分がいる。 それは昼のお握りを食べ損ねてお腹が空いてるせいじゃない。 東京湾に鋭く突き刺さるその地形が故に、この岬がかつて担った使命について、改めて深く考えるきっかけを今回の訪問が作ってくれたからだ。

帰りは富津の交差点から16号に入ってそのまま突っ走り、往路と同じ小糸川を経て君津駅へ帰着、そこから始発の快速電車に乗り込む。 もちろん食べ損ねたお昼は駅のキオスクで仕入れ、発車前の誰もいない冷房の効いた車内で平らげた。 程よい疲労とお腹も満足で眠くなるだろうが、爆睡してしまって終点まで乗り過ごすと大変だ。 なにしろこの電車の終着は遠く三浦半島の久里浜、そして浦賀水道を隔てて富津の対岸となる観音崎はそこから目と鼻の先なのだから。

- おわり -

参考資料:

buttonBack to Rail Page