玉川上水と中央線 |
玉川上水と中央線... 関係なさそうで実は関係あったりするのである。玉川上水は、玉川兄弟により開削された都民の貴重な上水道だが、実は一時期通船がおこなわれていたという事実がある。多摩川から羽村の水門を通って都心の内藤新宿まで、石灰・野菜・織物などを運ぶ船が最盛期で100隻以上行き来していた。
ただこれが行なわれていたのは明治3年から2年間という短い間で、上水の管理が大蔵省土木寮から東京府へと移管されたのを機に中止されてしまった。中止の理由は「上水不潔ニ至リ」というもので、飲用用水路としては至極当然、むしろ許可されていた事の方が不思議なくらいである。
船の持ち主たちは再三に渡って通船再開を嘆願したが、結局許可されなかった。その頃、この件に着目した一部の企業家が甲武馬車鉄道を設立し、新宿〜羽村(第1期)、砂川〜八王子(第2期)の敷設願書を提出した。通船により運んでいた荷物を、馬車鉄道を代替手段として運ぼうというものだった。その後計画は多少変更され、新宿〜福島村(昭島)〜八王子というルートで敷設許可を取り付けている。
一方、船の持ち主たちも黙ってはおらず、武甲鉄道という会社を設立して新宿〜砂川〜青梅(第1期)、砂川〜八王子(第2期)というルートの願書を提出する。だがこれは、甲武馬車鉄道とほとんど競合する計画であったので当局の指導が入り、既にその時点で馬車から機関車へと方針変更していた甲武鉄道と合併する事となった。
工事は明治21年6月着工、明治22年4月に新宿〜立川間、同8月に立川〜八王子間を開通するというスピードで行なわれた。これが現在の中央線(新宿〜八王子間)である。ところで実際に竣功したコースは、当初馬車鉄道で計画されたルートとだいぶ異なる。これは、動力を馬車から機関車へと変更した事により、玉川上水沿いのコースでは勾配に無理があった事、輸送の主体であった貨物の主産地と消費地の直結を優先させた事、などが理由とされている。(沿線町村からの反対運動により人家の無い郊外地を通したという説もあるが、これは疑問視する向きが多い。)
なおこの後甲武鉄道は、明治28年に新宿〜飯田町(現飯田橋駅の南側にある貨物駅)間を開通して、都心部への乗り入れを果たしている。また、明治34年には西から延びて来た官設の中央線と八王子駅での接続が実現し、現在の中央本線の骨格がほぼ完成する。
現在、中央線の快速電車が三鷹駅へ停車すると、乗車位置によっては窓の下にこの玉川上水(既にこの区間は本来の上水としては機能していないが)の流れが中央線と斜めにクロスしているのを、チラっとではあるが見る事が出来る。