その先で道はすぐに又 16号へと合流してしまいます(写真47)。 幸いこの部分は路側帯が広がっているので、後ろからビュンビュン抜き去って行く車に怯える事もなく進んで行くと、間もなく歩道橋がありその先で旧道は再び左手へと分かれて行きます。 河岸段丘の下に広がる川沿いのこのあたりの地域は、舟運の盛んな頃から開けていたのでしょう。 馬車鉄道がわざわざ坂を下りてきてこの地域を結びながら抜けて行ったのも道理です。 その一方で、右手の丘の上が以前は一面の荒地や畑だったのは容易に想像出来る事で、汽車の線路や飛行場がそちらに出来たのも無理からぬ話かと思います。
旧道はもう一度 16号とからんで山側に移りますが、その交差点は現在工事中で、どうやら新たな歩道橋が作られるようです(写真49)。 山側に移ったらそのまま真っ直ぐに行ってしまいそうですが、どっこい旧道はさにあらず、二木ゴルフ裏手に進む道が軌道跡になります(写真50)。 車の通りの無い道をしばらく静かに進み、本道に合流する所が糀谷米店前。 この店舗もその造りになかなかの歴史を刻んでいますが、きっと馬鉄の客車も当時の店先をかすめて、カタコトと走って行ったに違いありません(写真51)。 そう思うと路側帯の白線も、何となく線路跡のように見えて来てしまうので不思議です。
その先すぐの交差点で、実は中武馬車鉄道の線路は終わりです。 入間川を渡って来た入間馬車鉄道の線路が左手から合流し、ここから先はその区間に乗り入れの形になるのです(写真52)。 しかしこんな明治の時代から、しかも馬車鉄道で乗り入れが行なわれていたというのは驚きでもあります。 線路を間借りする形になった中武側は年間300円の使用料を払ったそうですが、乗り入れ区間で入間側の車両が来ると乗客総出で一旦客車を線路から外して道をあけた、なんていう逸話が語られていたりもします。
いよいよ入間川の中心部に入って来ると何となく空が開けた感じがしますが、それもその筈でこの街区は景観に配慮して電線が地中に埋められているのです(写真54)。 電柱も電線も無い空を見上げるのは、やはりスッキリとして気持ちのいいものですが、おそらくこれこそが馬車鉄道の走っていた当時の空なのだと思います。 ここで交差点を右折すればすぐに狭山市駅になりますが、軌道跡はそこを無視するようにさらに先へと進んでしまいます。 駅が坂の上にあるので、ここは勾配を緩める為に少し遠回りをしていたのかも知れません。
次の交差点でようやく右折をして、若干後戻りするような形で最後の坂を登りにかかります(写真55)。 それでもこの坂は結構な勾配で、きっと人の乗った客車を引っ張り上げるのは馬にとってはつらい区間だったに違いありません(写真56)。 左右にうねりながら続く坂道を登りきると、ポッと狭山市駅前の細長い広場に到着(写真57)。 当時の入間馬車鉄道本社は現在西友の建っている場所だそうですが、西武バスの行き交う駅前の一角にかつて馬車鉄道の駅があった事など、誰も知ってる人はいない事でしょう。
明治から大正期にかけて存在し、青梅〜豊岡〜入間川を結んで人々に利用された中武馬車鉄道。 その経営は後に出現した幹線鉄道の影響もあってかなり厳しいものでしたが、今もいくつかの地域で残る「停車場」などの呼び名からは、当時の人々がこの乗り物に少なからず愛着を持っていた事が想像出来ます。 そんな馬車鉄道の跡を追って全線をレポートしてみましたが、その距離は想像以上に長く、全線を乗り通すには相当の忍耐が必要だったのではないかと感じました。 今や駅前広場には大型バスがひしめき合い、かつて蒸気の引く客車が往来していた川越鉄道「いるまがは」駅のホームを、スマートなニューレッドアロー「小江戸号」が滑らかに出発してゆくのが印象的な光景でした。