前々から気になっていた小手指ヶ原へ連休中に行って来た。 この近辺は初訪問でなく、武蔵野自転車倶楽部などで何度も走行しているエリアではあるが、小手指ヶ原としてスポットを当てるのは今回が初めてである。 ここは国木田独歩の小説「武蔵野」冒頭にも出て来る、地域としての武蔵野を代表する象徴的な場所でもある。
「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。(国木田独歩「武蔵野」より)
独歩も書いているが、このあたりは南北朝の時代頃からたびたび合戦が繰り広げられた場所であり、なかでも源氏の末裔で上野国新田荘の御家人であった新田義貞が鎌倉幕府軍と戦った「小手指原の戦い」の初戦場として知られている。 まずはその古戦場跡の碑がある場所へと向かうべく、青梅からなるべく田舎道を選んでのんびり走り、所沢入間バイパスへと一旦抜ける。
バイパスからの石碑入口となるのは誓詞橋(せいじがはし)交差点だが、この名称も実は合戦に由来しているようで、新田軍が幕府を倒す誓いをした場所と言われているそうだ。 現在は橋らしき物は見当たらず、どうやら広いバイパス道路下で川が暗渠化されているようである。 交差点脇には、石橋化された際に橋の安泰と通行人の安全を祈って建てられた石橋供養塔が立っている。
そこから住宅地の中を少しの間すり抜けて周囲に畑地が広がるようになると、道の左手に保育園があり、その向かい側に、フェンスで三角形に囲まれた小さな敷地が見えて来る。 近くまで行くと中には小さな石碑がポツンと立ち、脇に解説板が添えられていた。 これが「小手指原古戦場」の石碑であるが、実はここの前を私は何度か通った事があり、過去に写真も撮っているのだが当時はあまり興味が無かった。
埼玉県指定文化財(旧跡)
小手指ヶ原古戦場
小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入會(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には、狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場になることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘三年(一三三三)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年五月八日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は十一日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは百五十騎ほどであった一行は、進むにつれ沿道の武士を加え、最後には二十万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で三十余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌十二日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局二十一日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、五月二十二日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
平成二十二年三月所沢市教育委員会
解説にもある通り、鎌倉幕府を倒すため兵を挙げた新田義貞は、元弘3年(1333年)5月8日に新田荘を出る。 一行は初め150騎ほどであったが、進んで行くうちに沿道の武士が次々と加勢し、その数を増やしていった。 そして5月11日に、ここ小手指ヶ原で鎌倉を発った幕府軍と対峙し、合戦の火蓋が切られた。 最初のうち戦いは一進一退の激戦であったが、新田軍の攻撃により幕府軍は徐々に後退して鎌倉突入を許し、5月22日に得宗の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅ぶところとなったのである。
さて解説板にある「白旗塚」だが、このすぐ隣りにあるのでそちらも訪問しておこう。 石碑前から脇の細い砂利道へ入ると周囲は雑木林となるが、少し進んで行くとすぐ右手に小高い古墳状の地形が見えて来る。 そこが白旗塚で、解説に記載の通り新田義貞が源氏の旗印とされる白旗を立てたとされるが、全体が前方後円墳型をしており、元々は古代の古墳だったのではないかとの説もあるようだ。
塚の下に自転車を停め、徒歩で頂上まで登ってみる。 義貞が目印として白旗を立てた頃はそれなりに見通しが良かったのだろうが、今は樹が生い茂ってしまい遠くまで見通す事は出来ない。 かろうじて階段の途中からだと、周囲を囲む畑地が見える程度である。
塚への登り口は2個所あるようで、私が往復したのは東側の階段だったが、南側の方には入口脇の木陰に車が停めてあり、子供連れの家族が寛いでいた。 この白旗塚、冨士講の人達が江戸時代に造り上げた人工の丘、いわゆる富士塚ではないかとも言われているらしく、色々と謎多き物件ではある。
さて、せっかくここまで来たのだから、久し振りに小手指駅まで足を延ばしてみよう。 バイパス道路を渡って北へ進み、小手指駅前に出た後、そのまま小手指車両基地の方へ。 ここは池袋線の本線脇に広大な敷地を持ち、10両編成が縦列で3本も停車出来るという眺めは壮観である。 私の生活に身近な西武路線は新宿線の方だが、こちら池袋線はそう言えばかつての「武蔵野鉄道」である(無理やりな武蔵野繋がりw)。
しかし最近は黄色い電車を見なくなったなぁと心の中で呟きながら基地の終端部まで行くと、一番奥の方に黄色い帯の6000系が居た。 だがこれは西武レモンイエローのリバイバルでなく、2023年10月に「西武有楽町線開通40周年記念車両」として、かつての営団7000系を模して登場した編成らしい。
電車を見て気が済んだので(笑)本日はこれにて家路に就く。 帰りも幹線道を避けて裏道を繋ぎ繋ぎの行路であるが、さすがに気温が上昇して来て暑い。 来る時に途中のコンビニでお昼の食材を確保していたのだが、食べるべき適当な場所が見当たらないまま、お昼前には家に着いてしまった。