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上本郷駅について
Icon 2003/06

 はじめまして、私は上本郷駅を最寄り駅としている者です。暇つぶしにトミックスのリンクコーナーを見ていたらなにやら面白そうなホームページが・・。その中に「新京成」のコーナーがあり、京成津田沼から順に見ていくとなんと地元の駅である「上本郷駅」が通過となっているではありませんか、これではいけないと思いパソコンに向かっています。

 私は現在42歳で現住所に越してきたのが昭和42年であります。当時のこの近辺というのが松戸駅から一駅めというのにまさしくすごい所で驚きの連続でありました。まず、我が家の前の道は軽い下り坂となっていましたがその先で道がなくなりはるか先に高低差5,6メーターはあった崖がありその下にでかい水溜り(あれは沼とは言えないですね)という信じられないロケーションでありました。上本郷駅へは畑のあぜ道を通るしか道がありませんでした。(ちなみに現在では上本郷から松戸駅間で20分ほどで歩けますが当時は国道6号線わき(今は緑ヶ丘という地名ですが)がまた人跡未踏の荒地で松戸駅まではどんなことがあっても新京成で無いと行けないという状況でした。

 そもそもこの上本郷という地名ですが駅の近くに「風早神社」という市内最古の神社がありこの「風早郷」の中心の意味で「本郷」と呼ばれるようになり、その後の江戸初期の検地の際「栗原郷」(船橋市内)と区別するため「上」がつき「上本郷」となったそうです(新京成情報誌‘チャオ49号’より抜粋)。

 地名の由来はいいとして当時の駅は、現在の駅ビルのあった場所に木造平屋建ての駅舎があり改札の先に構内踏切があってホームが松戸新田や稔台のような対向式でなく島式のため松戸、京成津田沼どちらに行くにも踏切を渡らないといけないという仕組みになっていました。地平でしたから駅に向かって歩いているとき、警報機がなったら即ダッシュすれば何とか間に合うのでよく走ったものです。逆に京成津田沼方面に行く場合さっきの構内踏切が障害となって乗り損なうことがよくありました。

 また、構内踏切の横に本当の踏切がありその踏切を横切ればそのままホームに上がれる(実際やった人を見たことがあります)ためその一帯に木製の剣山のようなバリケードが並べてあったのを覚えています。私の記憶では当駅が橋上化される直前までこのような形がずっと残っていたと思います。

 先ほどの崖もここに来て数年で宅地が造成(地形が完璧に変わりました)され当時の面影は全くといっていいほど残っておりません。当駅と次の松戸新田、稔台駅との駅間が恐ろしいほど短く特に松戸新田駅のホームから稔台駅のホームに停車している電車が見える(今も見えます)ほどですが当駅を出発して90度カーブした先が松戸新田駅というわけで駅は見えません。しかし、上本郷駅前通りを直進した先の交差点を左折して直進すると松戸新田駅になるため改めて線路がカーブしていることを実感できます。

 就職、転勤などで当地を15年ほど離れていましたが最近こちらに戻ってきました。当時は京成のお古電車ばかりでピンク(まさしくピンク)とエンジの2トーンカラーの奇抜なカラーの電車だったこと、8両編成開始当時は釣掛車が充当され非冷房だったのでなるべく6両編成の8000系を狙って乗車していました。そんなことも昔の話で今では全車冷房、VVVFやらシングルアームパンタと本家の京成よりグレードの高い車両を保有し、東証1部へ上場、毎年工場見学を実施するなど飛ぶ鳥を落とす勢いです。

 最近、空き部屋だったテナント部分が「鉄道資料館」となるなどこの沿線に生活する者としてまことにうれしい限りです。あとは、保有車両の模型化ぐらいでしょうか。

 話が恐ろしく長くなってしまいましたが、もともと鉄道連隊の演習線(そんなわけでぐねぐね曲がっている)からスタートしてここまで発展した私鉄って無いんじゃないのでしょうか。まあ、沿線の団地という強い味方があったからこそこうなったわけで人が集まると鉄道は栄えるといういい例じゃないのでしょうか。

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