■多摩川線沿線の廃線跡  2001/07 談:のがわさん 

 先の記事の西武多摩川線... ではなかった野川電鉄多摩川線沿線の廃線跡について、同電鉄に詳しい「のがわ」さんにお話を伺う機会を得ました。当日は梅雨の合間の晴れた一日、せっかくのお日和なので、一緒に野川沿いの遊歩道を散策しながらのインタビューとなりました。


(か):私
(の):のがわさん

●調布飛行場への専用線について
(か)
のがわさんは、あの廃線跡を探索された事があるそうですね?
(の)
私も、現役時代の事については「多摩のあゆみ」と「トワイライトゾーンマニュアル」、あとは市史くらいでしか知らないのですが、廃線跡の探索は以前に試みた事があります。
最近になって、終戦直後の航空写真(米軍撮影)と現在の地形図を比較したのですが、どうやら今の武蔵野学園小学校の北東側の境界線の所を線路が通っていたようです。住宅の敷地の区画からも伺えて、変に細長い敷地にアパートが建っていました。
人見街道とは、再開発で新しく出来た道路(『だだっぴろい敷地の真ん中を貫く大通り』)との交差点の付近で交差していたようです。
(か)
あの引込線は二手に分かれていたらしいですが。
(の)
線路は飛行場内で二本に分かれ、片方は滑走路の西側を通って水耕農場の積み出しホーム(現在の府中養護学校あたり)へ、もう一本は滑走路の北側を回って空港ターミナルへと続いているのが見て取れました。
北側の方の線路は、地形図で見ると、敷地内の林と草原の境界がいかにもそれらしい曲線を描いているので、ひょっとすると現在でも跡をたどれるかも知れません。
(か)
多麿駅寄りの引込線はどうでしたか?
(の)
もう一本の引込線は、航空写真でははっきりしないのですが、どうやら今の朝日町2丁目交差点(御サイト内Photo-3)から北に伸びる道が、かつての線路跡に相当する様です。
(か)
そうですか。実は私、あのあたりで関東村跡に迷い込んでしまい(笑)、気が付いたら飛行場の望める丘に出ちゃいまして...。
(の)
…関東村跡地の公園の展望台、絶景ですね。
公園を造成するときに(多分)残土を盛って作ったものなのですが、北側は野川に沿った崖、南は多摩丘陵まで見渡せて、私もお気に入りの場所です。
そういえば、多磨駅の東口にある銭湯「藤の湯」は、洗い場がものすごく広く、蛇口が100近くありました。近くには都営住宅もあるのですが、大した戸数ではなく、恐らく水耕農場〜関東村の職員の為のものだったのではないかと思います。(一応尋ねてみたのですがはっきりしませんでした)
●新小金井駅南方の採石工場への専用線について
(か)
関東村ってのは結構な人数が居たのですね。ところで新小金井の方の件ですが...
(の)
採石工場は確かにあったようです。確か市史で写真も見た覚えがあります。
工場は西武鉄道の直営でしたが、多摩川での採石が禁止された昭和39年に閉鎖、跡地は西武不動産の手で分譲されて住宅地となりました。学校敷地も同時に市に寄付されたものと聞いています。
この学校…東中学校の開校は昭和39年4月、校舎の落成は同年7月29日で、建設はかなりの突貫工事だった様です。周辺の分譲も同時期だと思われます。
採石工場の西側は多摩川線の線路に面しているのですが、かつてはここに積み出し用のホッパーがあったとも聞いた覚えがあります。(まだ時代も浅いので、探せば関係者も見つかりそうです。)
(か)
航空写真ではここらの具合ってどうでしたか?分岐点は、やはりあの斜めの道でしょうか。
(の)
専用線は、これも航空写真で見ると、ご推測の通り、線路から斜めに入る道の付近で分岐していた様です。その先は、道なりではなく、さらに東よりに進み、現在の国際基督教大学裏門付近へと伸びていました。大学裏門から北西方向へ伸びる道、ちょうど分譲地と畑の境界になる道がかつての線路跡の様です。
トワイライトゾーンマニュアル4にある「旧軍用ホーム跡」は、現在の大学構内に入ってすぐの所の様です。このあたりは昭和40年頃にゴルフコースになった際に整地されており、痕跡は伺えませんでした。
さらにその先は、航空写真では大学附属高校の南側の交差点付近まで線路が伸びている様に見えました。ここも高校建設時に整地され、痕跡はありません。
(か)
私はこの線路、中島飛行機まで延びていたんじゃないかと疑っているのですが。
(の)
中島飛行機三鷹研究所の構内まで線路があったのは確かですが、工場ではないので原料搬入や製品の出荷といった役割は無く、大規模な施設というのは必要なかったのではないでしょうか。
…何せ地元、東中は母校ですので(笑)関心もあっていろいろと調べておりました。祖父が戦後ずっと大学の北側すぐのところに住んでいて、昔話もいろいろと。
本題とは関係ないですが、国際基督教大学の本館は、中島飛行機三鷹研究所の本館をそのまま使っていて、今も弾痕が残っているとか、戦後京王が計画していた立川線(富士見台−立川)が大学北側を通る予定だったとか、そんな話も聞きました。



 興味深いお話しを伺いながらそぞろ歩いているうちに、いつの間にか国分寺の野川電鉄本社の近くまで来てしまいました。ちょうど建物から出てきた役員らしい人と、しばらくお話していた「のがわ」さんが手招きをしています。一緒に建物に入ってゆくと、なんと通されたところは社長室。
 三人でさらに夕方まで楽しく野鉄談義などし、社長氏の鉄道経営にかける、なみなみならぬ情熱もいろいろとお伺いしました。しかし「のがわ」さん、野川電鉄当局関係者ではないとおっしゃってましたが、どうもこの様子を見るとただ者では無いようです。(^^;)

 社屋玄関で二人とお別れして駅へと向かう道すがら、私の横を緑とクリームに塗り分けられた電車が、夕陽を窓ガラスに反射して、一陣の風と共に走り去って行きました。


Image 取材協力 ※本記事のインタビューはバーチャルですが、
 のがわさんのコメント内容は実際のお話しです。




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