厚木電留線について  ButtonPop Up Map
 以前、ボードへの書き込みで、相模鉄道の海老名〜厚木間の不思議についての問い合わせがありました。これについて、理科大の 橋本さん より詳細の解説を頂きましたので、ご紹介します。

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 ず、海老名に最初に鉄道が敷かれたのは大正15年7月のこと、星川から相模川東岸まで延びてきた神中鉄道(現在の相模鉄道)と、茅ヶ崎から北上してきた相模鉄道(現在のJR相模線、この辺がまぎらわしいんだなあ。)が現在の厚木駅でつながったことが始まりになります。当時の線路は、現在の相鉄厚木線(貨物線)から、厚木駅を通って相模線に入っていくという形だったわけです。当時は旅客輸送もやっていましたが、むしろ両社とも相模川の砂利輸送を目的として建設された路線でした。

 ちなみに、神中鉄道は横浜と厚木市街を結ぶ鉄道として計画され、建設されたのですが、資金難から相模川に橋を架けることができませんでした。現在の厚木駅は、海老名市河原口に位置していまして、神中が延びてきた翌年に開通した小田急の場合は現在の厚木駅を「河原口」とつけています。しかし、橋を架けずに厚木の名を取れるなんてうまい話はないと、当時の海老名村長で当時の相模鉄道の重役であった人が当時の厚木町当局に運動し、命名されたのが現在の厚木駅の名前の由来です。

#まるで政治駅。

 そのため、厚木の中心にできた小田急の駅はもはや「厚木」と名乗ることができなくなり、頭に「相模」を冠して「相模厚木」としたのでした。これは昭和19年に、現在と同じ「本厚木」に変更されています。

#私、厚木駅を厚木市の中心だと思って降りてしまい、なんだか分からなくなって
#聞いてきた方を何人か見ています。改称するべきです、この駅名は。

 時は、厚木の町から相模大橋を通って連絡バスが走っていたものでした。なお、当時の厚木駅というのは、現在の厚木本屋の位置でして、現在の厚木駅は小田急とののりかえのための乗降場として便宜的に設けられたのが始まりと記憶しています。現在のJR相模線の205系の運転席にあるディスプレイを見ると、厚木と厚木本屋が別々に表示されているのが分かります。

 そういえば、厚木本屋の位置というのは、電化前の時代にタブレット交換をやっていた位置で良かったと思います。で、駅舎があった場所というのは、現在の場所には「びゅうプラザ」の厚木支社の建物がある場所あたりだと思います。

話は戻りまして、

 ちに、当時の相模鉄道は橋本まで北上し、世は戦争の時代に入ります。そして神中相模の両社は合併しました。しかし、それもほんのつかの間、茅ヶ崎<-->橋本間は国に買収され、わずか1年ほどの間に神中相模の名前が入れ替わったようになってしまいます。こうして、神中という名前は消え、名前の上では小田急相模鉄道国鉄相模線と現在の路線の基盤ができあがります。

 それよりも少し前の昭和16年のころ、神中鉄道小田急線本厚木(当時の相模厚木)への乗り入れを実現させるために、現在の海老名駅よりも200mほど横浜寄りに駅を開設しました。このときに、現在の厚木駅への旅客輸送は終わったと思われます。しかし、小田急がこの駅からさらに400m新宿寄りにあった海老名国分駅から移転してきたのは1年半後のこと、昭和18年のことになります。当時は、相模鉄道のガソリンカーが相模厚木まで乗り入れていました。この相鉄の乗り入れは、昭和39年11月をもって廃止されています。

#ここのあたりが答えですね。

 して、相模国分(信)から厚木までの間については、貨物線としての機能を果たしていくことになります。貨物列車というと、米タン輸送ですね。現在でも行なわれていますが、結構不定期なものでなかなか撮影は難しいです。

 小田急が海老名駅付近の広大な水田地帯に目をつけ、車両基地を設けた総合駅として開発していくのを決めたのは昭和40年代前半のこと、当時の車両基地不足をいっきに改称させる300両の収容量数を誇る海老名電車基地と現在の海老名駅を開設させたのが昭和47年のこと、そのときに相鉄線も線路を200m西に伸ばして現在の形になっています。

#が、25年が経過した今、駅前は小田急の空き地ばかり・・・
#平成12年度までに開発をすると言っているのは実現できるのか? (-_-;
#デパート、マンション、ペデストリアンデッキ、アミューズメント、ディスカウ
#ントストア、そして駅舎の全面改築・・・
#去年の今ごろ、開発計画が提示されたんだっけ、小田急から海老名市に。

 年になって、だいたい90年代に入るころから、相鉄の保有車両数が増加してかしわ台の車両基地が飽和状態になり、厚木電留線を夜間の電車の留置線として使いはじめています。ですから、ラッシュの前後にはJR相模線海老名駅の脇を走っていく、相鉄の車両を見ることができます。


 長々と書いてしまいましたが、答えは「厚木までの旅客輸送は行なわれていた」です。ただし、旧海老名駅が開設されるまでの間ということで、その期間は15年ほどの間であったというわけです。で、当時の厚木駅は現在の厚木本屋にあたり、そこには対岸の厚木町から連絡バスが運行されていたということです。

 本当はもっと細かいのですが、資料がないとちょっと苦しい部分が多々ありますので、ややおおざっぱに説明させていただきました。

#でも、これで十二分すぎるのかも。(^^;;;

 厚木駅にあった小田急相模線の短絡線や、当時の小田急線「河原口」駅の連絡用だったと思われる中新田口駅の存在など、海老名にはいろいろな廃線跡や廃駅跡などが存在しています。こういったところを買ったばかりのデジカメで撮って回ろうと思っています。

橋本 知幸

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