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〜 追補:田面沢駅 〜
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国土地理院(当時は大日本帝國陸地測量部)が大正4年に発行した1/5万地形図「川越」には、現在の東上線ルートと重なる線路上に田面沢駅の位置が記されている。 そこから類推出来る実際の駅の位置は、多少の誤差及び省略記法を考慮すると、以下の 5パターン程度になるのではないかと考えていた。

  1. 現在線(厳密には旧橋梁への取付部)の築堤上
  2. 築堤南西側の地表
  3. 築堤北東側の地表
  4. 築堤の開始点付近地表
  5. 築堤の直下部
Fig

ところが、東武鉄道百年史には田面沢駅の場所が現在の路線から外れた位置にあったともとれる記述があるので、それも考えに入れるともう少し大胆な仮説(妄想?)も記しておく必要がありそうだ。 但しその場合は、当時の地図が大間違いであるという事実へと結びついてしまう。 さて、どっちが正しいのだろう?

 終点田面沢は明治22年小室、今成、小ケ谷各村に野田新田、および野田村の一部が合併して田面沢村(現川越市)となったもので、〜(略)〜 駅舎は入間川右岸の小ケ谷にあり、一応、第一拠点の川越市に達したため、当地を仮の終点として、前述のとおり大正3年5月日、池袋〜田面沢間の営業を開始した。
 その後、鋭意延長線工事を継続し、(大正)5年2月には川越町〜田面沢間の旅客輸送を廃止して貨物輸送に限る、としたが、同年10月27日川越町から方向をやや南西に変え、坂戸町まで9.2kmが開通したため、川越町〜田面沢間を廃止した。(東武鉄道百年史より)

曲者は「方向をやや南西に変え」、及び「川越町〜田面沢間を廃止」の2箇所の記述だ。 これは既設の路線に対して「方向をやや南西に変え」た事を意味しているものと思われる。 単なる延長なら、既に出来ている部分を一旦廃止するのは誠に不自然である。 工事による一時休止ならまだわかるが、戸籍上廃止しているのだ。 例えば私の図で示した 3.の位置に駅があったとして、そこからの変更で延伸した場合は「南西に変え」たとも言えるが、既存路線を廃止する理由の説明がつかない。 やはり一旦廃止するからには、それなりに現路線から離れている必然性があるだろう。 それとも、一旦貨物線化してしまったために便宜上廃止し、新線扱いにして再開したのだろうか。

そんな事を考えていた矢先、入間川橋梁の記事を書く発端となった kanekoさんの掲示板で一つ情報を頂いた。 東上鉄道の川越から先は、当初は坂戸へは向かわずに東松山へ直進する計画だったというのだ。 調べてみると確かに当初の東上鉄道の計画では経由地が川越、小坂、松山となっており、現在の不自然に屈曲した経路とは違っている。 田面沢開通時点で既に坂戸を経由する事は決定済だったようだが、当初の計画が何らかの要因によりまだ尾を引いていて、とりあえず直進するルート上に田面沢駅までは一旦作ろう何ていう話でもあったかも知れない。 そんな事もちょっと想像してみたりする。

Map
国土地理院発行1/5万地形図
「川越」大正4年

東松山を目指すとすると、当然ながら現在線よりは北東を向く事になり、これと駅のあった住所として記録されている「小ヶ谷」を加味すると、上図の付近なんかは可能性が高そうだ。 地図上でちょうど河越館の対岸となり、少し民家の固まっている一帯だ。 ちなみに、ここが北限で南は川越線の少し先のあたりまで小ヶ谷という地名なので、ひょっとしたら川越線自体が東上鉄道の廃線跡を利用して敷設された、なんて考えも以前はしてみた事があった。 しかし、現在の東上線と一致若しくは北東方向へ向いていたというのが資料的に明らかになりつつあるので、さすがにそれは無さそうだ。

というわけでさらに謎は謎を呼び…という感じなのだが、この辺の話はおそらく昔から何度も論議されて来たのかも知れない。 そういう故あっての、謎多き駅:田面沢なのだろう。