2. Tanomozawa

Photo 〜 田面沢駅はどこだ? 〜

JR川越線は東上鉄道よりずっと後から出来た路線(1940年開通)だが、こちらには現在西川越という小駅があり、街道沿いという事もあって周囲は多少民家が立て込んでいる。 その線路を踏切で越えて北の方へ進んで行くと、あたりは一転して一面の田園地帯となり、東上線がそのど真ん中を貫いて入間川橋梁に向かって築堤を駆け上がって行くのが見える。 そしてこの築堤の途中こそが、地図上で田面沢駅のあった場所なのだ。

ここで疑問その一
■仮駅とは言え、何故こんな街外れの場所に駅を設けたのか

田面沢駅の南側には、先ほどの街道沿いの村落が当時から若干はあったようだが、それにしても駅を置くような場所だったろうか? 線路は開通していたとは言え、旅客列車は川越市駅(当時は川越町駅)で折り返しでも充分だったのではなかろうか。 あるいは入間川橋梁工事の為の資材や、作業員運搬の為に開設されたのかも知れないが、それにしても寂しい場所である。

この区間は、複線化の目的で架橋された新橋梁と共に線路が切り替えられた為、現在は路盤が南側に移動している。 踏切際から入間川方向を遠望してみると、その為に、線路が途中でググっと川上へカーブを描いてから鉄橋へと進入しているのが良くわかる。 そのカーブの始まるあたりを目指し、田んぼの中の農道を進んで旧線跡に近づいてみよう。 付け替え前に使われていた跨道橋の煉瓦積みが、遺構としてまだ 2箇所程残されているのを発見出来る。 どちらも桁下高があまりなく、入り口にはそれを保護する鉄製のゲートが設けられていた。

さて、疑問その二...
■仮駅はほんとうにこの築堤上に設けられたのか

当時は非電化だったため、走っていたのは蒸気列車である。 終点では機関車の付け替えを行なわないといけないが、その為には当然ながら機廻線が必要になる。 単線の築堤上にそれを作る余地は無いし、ここは入間川に向かって勾配になっているので、駅としては条件がよろしくない。 勾配標を確認して来なかったが、跨道橋の桁下高を制限する交通標識から判断すると、片方が 2.7m、もう一方が 3.5m、地図上の距離でその間 120m程なので、ざっと 7パーミル弱という感じだ。

というわけで、ここはやはり勾配を避けた築堤脇の地平、もしくは勾配区間の手前に駅が設けられていたと考えるのが自然ではないだろうか。 いや待てよ... 何れ廃止してしまう仮駅にそんなにお金をかけるわけは無いから、ひょっとすると築堤上の線路一本ホーム一面で、到着した列車はそのまま推進運転で折り返して行ったのかも知れない。

とまぁ色々と考えられるのだが、今の所資料も遺構も証言も得られない為、謎は謎としてとっておく事にしたい。 ちなみにここにはその後も入間川の水泳客目当てで、季節限定の臨時駅が設けられた事もあるらしい。

追記:「東武鉄道百年史」に以下の記載があるとの事、情報頂きましたので引用します。
「その後、鋭意延長線工事を継続し、(大正)5年2月には川越町〜田面沢間の旅客輸送を廃止して貨物輸送に限る、としたが、同年10月27日川越町から方向をやや南西に変え、坂戸町まで9.2kmが開通したため、川越町〜田面沢間を廃止した。」 → 別編 追補:田面沢駅 にまとめました。
参考:東上沿線今昔物語
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田面沢駅付近の地図
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Photo 1. JR西川越駅
一面一線の小さな駅だが、県道に沿っており、周囲は民家に囲まれている。
Photo 2. 東武東上線
西川越駅前の踏切を渡って道路を北上すると、水田の中の東上線に行き当たる。
Photo 3. 田面沢駅跡?
地図上「たのもさは」と記載のある付近。旧築堤へと登る草に覆われた坂道がある。
Photo 4. 線路付替え
複線化に伴い新橋梁が上流に移った為、進入部の線路がクランクしている。
Photo 5. 付近の田園地帯
周囲はこんなのどかな田園風景が展開している。この畦道の突き当たるあたりが駅跡か。
Photo 6. 跨道橋跡その1
川越市駅側に一番近い跨道橋跡の煉瓦積み。奥の複線が現在の東上線となる。
Photo 7. 跨道橋跡その2
入間川寄り跨道橋(小ヶ谷橋梁)跡の煉瓦積み。先程の遺構よりは大分高さがある。
Photo 8. 築堤開始点付近
線路南側より築堤開始点付近を遠望。地図からは若干ずれるがこのあたりの可能性も。
Photo 9. 入間川堤防より
入間川の堤防上より、駅跡方向を望む。前方に小ヶ谷橋梁の橋台背面が見える。