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さて、ここからいよいよトロッコの軌道跡です。 住宅地を抜け関越自動車道の下を潜ると、目の前には浅羽野中学校の校庭が広がります。 地図によれば、位置的に砂利線の軌道はこの敷地の中で二つのルートに別れ、本線と支線がそれぞれ河原へと向かっていた事になっています。 しかし後期の空中写真を見ると、上図の緑のラインに付替えられ、この線のみで砂利採取を行なっていた時期もあるようです。 ここから左手へと分かれていた本線は、高麗川の土手沿いにさらに上流へと向かっていました。 今日はそちらの方へ行ってみましょう。

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河川敷の中をゆるいカーブで進む白い散歩道。トロッコ跡はこの右手の藪奥になる。

田んぼの中を渡って行き土手へと登ると、眼下に見える河川敷の中には緑の茂みとその中を蛇行して進む白い散歩道が続いていました。 野鳥の声を聞きながら、しばらくこの土手下のプロムナードをのんびりと進んで行きます。 軌道跡はその右手のブッシュの中ですが、既に何も無いと思われますのであえて突っ込んでは行きませんでした。 やがて水門が見えて来るとこの小道も終わり、再び土手の上を走って川から若干隔たった住宅団地裏手の車道へと出て来ました。 軌道跡の方はずっと川岸の方へ離れ、流路が変わった為に一部は川向こうの位置へとまわってしまっています。

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写真9

時代劇にでも出て来そうな木橋。さすがに自動車は通行禁止だが、一級河川、高麗川を渡る橋としてはもっとも鄙びた風情のものではないだろうか。

少し進むと細い道が川の方へ向かっていたので、そこから再び廃線跡へとアプローチしてみました。 岸辺に到着してみると、軌道がちょうど川向こうの位置からこちら側へと帰って来るあたりに、頼りなげな古い木橋が架かっていました。 当時の砂利線はずっと川の右岸を走っていて高麗川を渡った形跡は無いのですが、この橋はなかなか時代がかって良い雰囲気、トロッコが走っても似合いそうです。 そんな事を思いながら、川辺で釣りをしている人達の様子をしばらくボーっと見ていました。

さてハンドルを戻して終着点へと向かいましょう。 トロッコの軌道敷は住宅地をかすめ、あとは畑の中を一直線に進みます。 養殖池の脇を通過し、その先で畑の中にビニールハウスの並んでいるあたりが終点だったようです。 堤防の上に登ってあたりを見渡すと、もうすぐ向こうには県道が高麗川を渡る万年橋、砂利線は川に沿ってかなり上流まで延びていたのですね。

残念ながらこの砂利線に関しては手元に何も資料がなく、あまり詳しい事はわかりません。 地元等で何かご存知の方がいらしたら、情報をお寄せいただけると嬉しいです。 また坂戸駅に関連して、和寒さんのサイト 以久科鉄道志学館 に「東上鉄道ルート選定の謎」という示唆に富んだ記事が掲載されています。 このトロッコの軌道敷の一部は本来の東上線ルートになっていたかも知れない、という大変興味深い記述もありますので、合わせてお読み頂くと良いかと思います。