南津電鉄事件

探訪記の方ではあまり詳しく書かなかったが、南津電鉄の挫折から解散へと至る過程には、会社組織と株主、及び請負師や土工達との間で警察沙汰や裁判を含む一悶着が起きている。 故に、この事業は事件という観点から捉えて見る事の出来る側面も持っている。 これについてはサトウマコト著「幻の相武電車と南津電車」の中でも多くの紙面が割かれているが、その経営が怪しくなって以降の動きを要約すると以下のような流れとなる。

昭和4(1929)年
この年の5月、工事資金の欠乏により工事中断。請負師達への工事費支払いが滞った事から、彼らは会社を訴える。そんな中、10月には世界恐慌が発生して追い討ちをかけた。
昭和5(1930)年
事態は解決せず、請負師や土工達は敷設済のレールを剥がして換金したり、武器を持って役員や株主の所へ直接脅しに押しかけたりし始める。
昭和6(1931)年
役員による株券の不正名義変更他の刑事事件が露呈し、会社は混乱状態に。7月に創立メンバーの一人である松岡政次郎が病死し取締役を退任、その後、長男正二郎が「政次郎」を襲名。11月には工事再開へ向け重役陣が資金を工面し、請負師へ支払いを済ませる。年末には新たな請負先と契約を締結。
昭和7(1932)年
8月に株主総会が開かれたが、その後も資金繰りが思わしくなく、会社は継続派と解散派に分裂し休業状態に。
昭和8(1933)年
3月に一の宮~間島間、8月には相原~川尻間の免許が失効。株主の請求に応じ8月に臨時株主総会を開催、会社解散決議。一部から決議無効の訴えが出た為9月に再び臨時株主総会を開催、会社解散再決議。推進派は決議にあたり退席し、鉄道省に対し議決無効の陳情書を提出。
昭和9(1934)年
推進グループの株主達が推し、松岡政次郎(二代目)が再開会社の社長となる。しかし解散派の求めに応じ、6月に鉄道省が南津電鉄解散を許可。社長以下役員は私財持家を処分する等し、清算が始まる。

この、会社解散への経緯の中で大きな役割りをしているのが、創立時からの取締役の一人であった松岡政次郎だ(※書籍「幻の相武電車と南津電車」内で「政治郎」とされているのは誤り)。 実は探訪記を書くにあたり南津の情報を色々とネットで調べている中で、政次郎氏のお孫さんにあたる方の文章に巡り合う事が出来た。 連絡したところご快諾下さったので、以下リンクを紹介させていただく事にする。


 - 「松岡三五郎のひとりごと」より

南多摩郡由木村で大きな造り酒屋を営んでいた松岡家が、南津電鉄の事業に巻き込まれた果てに資産を凍結され、(それが直接の原因ではなかったものの)涙を呑んで日野へと新天地を求め、移って行くさまが良く理解出来る。 上記お読みいただいた中で、私としては以下の部分を改めて引用させてもらいたい。

本家の兄松岡政次郎と弟松岡補助が自叙伝で述べている「交通不便の田舎者を騙す東京のブローカーによる幽霊会社である事が後日に発覚した」は昭和9年以降の会社解散後に推進グループが設立した会社を指し、当初の南津電気鉄道と重複させてオブラートに包ませたのであろう。(松岡三五郎氏の「南津鉄道」より引用)

取締役だった政次郎氏のご子息である正二郎(襲名後は政次郎)氏や補助氏は、自叙伝の中で南津の事を「都会の黒幕が仕組んだ幽霊会社による大掛かりな詐欺事件」との見方をしていた。 これを当初からの南津全体と捉えるとサトウ氏の著書中にあるように「歴とした鉄道省認可で、三百五十名もの株主と、沿線各村長以下の協力で発足した鉄道会社だったが、補助氏の記憶ではとんでもない食わせもので、父も兄もそのせいで苦境に追い込まれたことを強調しているのだと思った。」(「幻の相武電車と南津電車」より引用)という感想になるが、実際は彼らは再開後の(後に乗っ取られた)会社の事を指して「幽霊会社」と考えていたようだ。 従って鉄道事業としての計画については、恨む気持ちは強くなかったのかも知れない。

Photo 相模相原~鑓水間 [SV]

鉄道史的に見れば、南津は事業として立派に計画された電鉄会社であったと言えるだろう。 開通すれば需要もそこそこあったものと想像出来るが、資金調達の面で少し見通しを誤り、そこへ加えて世界恐慌という不可抗力の重なったのが不運だったのだ。 世に数多ある開通せずに消えていった未成線の中では、相武電鉄と共にかなり実現に近い所まで進んだ稀有な例と言えるのではないだろうか。