おわりに

結局この鉄道は開通に漕ぎつける事が出来ずに終わってしまう。 それは直接的には株金の収集が思うに任せなかったという事が原因なのだが、背景としては突如襲った世界恐慌の影響及びそれによる(多くの株主であった)養蚕農家への打撃や生糸市場の暴落が大きかったようだ。

工事も第一期区間である鑓水近辺では一部レールの敷設も完了し、架線柱用の丸太まで準備されていたそうだが、工事請負師への給料の支払いが滞った事から会社は彼らに訴えられてしまう。 しかし訴訟でも埒が明かず、困り果てた請負師たちは換金のために敷設済のレールを引き剥がして売り飛ばしてしまったという。

大塚をはじめとする重役陣も私財を処分して金を工面する等、何とか工事再開を画策したのだが、結局会社は解散となり、土地や色々な面で協力した人々にも禍根を残す幕切れとなってしまった。 会社清算処理では自分の土地や住居を処分せざるを得ない関係者も出ており、それが元で没落した家も多く、関係する子孫のいる地域によっては後世に至っても南津の話はタブー視されていた所もあるようだ。

Photo 相模相原~鑓水間

時代に翻弄された残念な結末ではあるが、南多摩から津久井へと鉄道を引こうとした人々の情熱は、おそらく我が町を便利で豊かにしたいという純粋な気持ちだっただろう。 現在一つ丘を隔てたすぐ先には多摩ニュータウンの鉄道が走っているが、もし彼らがこれを見たら形を変えた夢の実現と感じるのか、あるいはライバルに持って行かれたという気持ちになるのだろうか。

~ おわり ~

年表
大正13(1924)年12月:永泉寺で南津電気鉄道株式会社設立協議会を開催
大正15(1926)年11月:多摩村・川尻村間敷設免許
昭和02(1927)年01月:国分寺延長線の免許申請
12月:多摩村・西府村間鉄道敷設免許、永泉寺で第一回株主総会開催
昭和03(1928)年06月:第二回株主総会開催、工事申請と土地買収への確認
10月:川尻及び鑓水駅予定地で起工式を挙行
11月:鑓水停車場記念碑を建立
昭和04(1929)年01月:鑓水付近にて工事開始
05月:工事資金の欠乏により工事中断
昭和07(1932)年03月:東京出張所移転, 工事再開を画策し請負先を変更
昭和08(1933)年09月:臨時株主総会を開催、会社解散決議
昭和09(1934)年06月:鉄道省が南津電鉄解散を認可
参考
  • 「幻の相武電車と南津電車」 サトウ マコト著 230クラブ発行
  • 鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号「特集:京王電鉄」 鉄道図書刊行会
※その後、相模原私立博物館所蔵の南津電鉄線路平面図を閲覧して来た。相模川尻~鑓水の当初計画ルートが確認出来たので、これに関しては 別記事 を書き起こしたいと思う。