南津電鉄の光と影

はじめに

その発端は大正12年に起こった関東大震災。 9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源として発生したマグニチュード7.9の大地震は丁度お昼の支度どきだった為もあり多くの火災を引き起こし、東京一円の街並みを灰燼に帰した。 浅草で区役所勤めをしていた大塚卯十郎は住処も働き場所も無くなり、家族を引き連れ徒歩で丸一日かかる生まれ故郷の由木村鑓水に帰って来た。 卯十郎はシルクロードとして栄えた鑓水商人の家系であったが、家業を疎かにした為に家は没落し、ふる里を捨て浅草へと移住していたのだ。

故郷へ戻った卯十郎は、津久井の川尻村に保有していた土地で旅館経営を始めるが、何せ鑓水から徒歩で4~5時間もかかる場所、行き来が不便で仕方が無い。 昔の仲間と旧交を温めるうち、我が村を豊かにする為にも、東京からこの鑓水、川尻へと結ぶ鉄道の敷設を考えるようになった。 当時は折から私鉄設立ブームの時期で、仲間の松岡政次郎(横浜鉄道株主、自由党員)や青木正太郎(江ノ電、京浜電鉄等を興した)、村野常右衛門(衆院議員で横浜鉄道や小田急設立に関係)、林副重(玉南電鉄発起人)らに多大な影響を受けた面も否めないだろう。

計画路線はさすがに東京中心部から線路を引くのは現実的でないと判断し、林副重が関係して建設中であった玉南電鉄の関戸(現 京王電鉄聖蹟桜ヶ丘駅)に接続する多摩一の宮駅を設け、そこを起点とする事にした。 会社設立にあたっては、卯十郎はまだ村人の信頼を得られていないだろうとの判断から、創立委員長は林副重、豪農の家系で由木村収入役でもあった大塚嘉義を常務委員とし、多摩郡関戸と久井郡川尻を結ぶ意味で社名を「南津電気鐵道株式會社」とした。

大正13年12月、鑓水の永泉寺で設立集会を開き本格的に活動を開始。 地区内の大栗川横の空家を借りて事務所を開いた。 免許申請の後、衆院議員村野常右衛門の周辺や卯十郎の浅草区役所ルート等も活用して鉄道省へ陳情を繰り返す努力を行なった結果、大正15年11月に免許を取得する事が出来た。 ここから、生糸の交易で栄えた鑓水とその周辺の村々を巻き込んで、一波乱を巻き起こした鉄道建設の物語が始まる事になる。

今回サトウマコト氏の著書「幻の相武電車と南津電車」を入手したところから、これを参考に、多摩地域の未成線としてはつとに有名な南津電鉄を追ってみる事にした。 位置としては京王相模原線の北側、大栗川の谷筋を野猿街道に沿うように走る経路の鉄道だ。 アプローチの関係でまずは終端点側の相模川尻駅の出来る予定だった地点から探索を始めた。

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