Image 武蔵野競技場線(1)

■緑陰に続く遊歩道

 さて、今年は梅雨も明け切らぬうちに 7月末となってしまったが、そろそろ活動を再開せねばならない。何故「ねば」なのかは知る由もないが、何せ"ねば"ならないのである。(^^;)

 だがこの時期、晴れれば直射日光にジリジリとさらされる事は目に見えている。夏の暑い盛りにアスファルトの道路を走るのは自殺行為だと、最近思い始めている私としては、これは是が非でも避けなければならない。
 というわけで、あっさりと三鷹まで輪行する事と相成ったが、あくまでも走るのがつらいんじゃなくて、時間かせぎネ、時間かせぎ。

 いいわけも済んだところで、早朝 6時台の青梅特快を三鷹で乗り捨て、駅前で自転車を組み立てる。都会(青梅に比べれば)の駅頭ゆえ、かなり注目を浴びる事を覚悟していたが、休日のこの時間ではそんな事もなく、一人黙々と組み立てに専念出来た。

 八ミツの電車群を左手に眺めつつ(Photo-1)、西へと進む。線路端では、母親に抱っこされた幼児が、電車に向かってさかんに手を振っていた。どこでも見かける光景だが、なかなかに微笑ましい。

 競技場線はこの三鷹電車区の北側から分岐するが、保線区の事務所裏手から出てきていたと思われる路盤跡(Photo-2)は、そのまま掘合児童公園へと突っ込む。その奥手で掘合遊歩道と名を変え、右にゆるくカーブを描きながら中央線から離れて行く。おそらく廃止後に植えられたものだろうが、ここらは木々が繁っており、周囲に比べて空気がヒンヤリとしているのがありがたい(Photo-3)

 道路を一つ横切ると、周囲には畑が広がり出した。三鷹駅からさほど離れてもいないこんな場所に、こんな風景(Photo-4)が展開するとは思わなかった。何やら農家らしい家も見えて来て、気持ちが和んでくる。
 さらに進むと、遊歩道脇には昔の井戸ポンプがオブジェと化していたりして(Photo-5)、何だか昭和30年代頃にタイムスリップした様な感覚に襲われる。

 やがて遊歩道は玉川上水に突き当たるが、ここには有名な橋台(Photo-6)が残っている。その前はちょっとした広場になっていて、ここでは朝の散歩の途中なのだろうか、犬を連れた人達が数人、静かに談笑をしていた。
 その場の雰囲気をこわしたくなかったので、写真を撮るのは後にして、とりあえず一度武蔵境駅の方へ戻る事にした。


Image 武蔵野競技場線(2)

■斜めに架かる橋

 武蔵境から出ていた元々の引込線分岐部(Photo-7)は、中央線の車中からも良くわかる。東京行きの電車が武蔵境を出てすぐ左手にJRの保線区があって作業機械らしきものが連なって置いてあるが、その部分あたりからがそうらしい。
 路盤跡はテニスコートの裏手へと中央線から離れて行くが、さらにその先へ緑道の並木がカーブを描きながら連なっているのがわかるはずだ。

 保線区の敷地内を入口から覗いて見ると、アントらしきものが山積みされたその下には、奥手の緑道へと向かっている2本のレール(Photo-8)が確認出来た。

 さて、この武蔵境からの線は、カーブの終わった先のあたりで競技場線のルートと合流していたはずだが、現在緑道として整備されているのは元々分岐側だった境浄水場への線のみで、両線の間の部分は住宅地に埋もれている。
 痕跡を探してみたところ、他の家と違って道路に対して斜めに建っているのが2〜3軒あったので、これが路盤跡そのものか、あるいは線路に沿って建っていたもののなごりなのかも知れない。

 引込線の本線から分岐した路盤跡は本村公園となり、玉川上水へ向かって住宅地の中を延びて行く。上水に突き当たった所は「みどり橋」という橋が斜めにかかっている(Photo-9)が、上部が木造、だが下は頑丈そうなアイビームというハイブリッド構造(Photo-10)となっている。
 電車で言えば、車体更新でボディだけ乗せ替えたってとこかな。(この橋の場合、更新で木造化されたわけだが)

 昔風に作られた欄干が半分朽ちかかっており、これから改修されるようだ。どうせなら、赤いプレートガーダーでも懸けてくれると嬉しいかも(^^;)。でも周囲の景観にはマッチしそうもないから却下かな。

 ここは渡れないのですぐ脇の車道橋を回り、境浄水場側へと移動する。線路が引き込まれていたと思われる地点には、やはり橋と同じ向きにゲートが設けられていた(Photo-11)
 ちなみに境浄水場の場内にも、この引込線とは別に、独自のトロッコ軌道が縦横に引き回されていたそうだ。

 さて競技場線に戻って、先へ進もう。境浄水場の脇を真っ直ぐに抜けると、道は久保公園の中へと出てくる。ここには水色に塗りかえられた古ぼけたバスが一台、「武蔵野市北風文庫」(Photo-12)として残されている。
 その名もなかなかに時代を感じさせるが、窓がいわゆるバス窓タイプでこれまたそそられる(^^;)。早朝ゆえ誰も中にはおらず、近くの方だろうか、ご婦人が周囲を竹箒で掃き清める音がシャッシャと木々にこだましていた。

 公園を出はずれるとそこは井の頭通りとの交差点(Photo-13)で、通りの向こう側には太い道路が続いている。遊歩道はその太い道路の右はじにかろうじて細く続いているが、おそらく線路跡はかなりの部分、道路に浸食されてしまっているのだろうと思う。


Image 武蔵野競技場線(3)

■駅跡のフリーマーケット

 道はまだまだグリーンパーク遊歩道として続いて行くが、段々と表通りを離れて右にゆるくカーブを描き始め、終点の近い事を教えてくれる。このあたり周囲の敷地との間には、例の「工」マークのついた境界標が多く残存していた。
 途中で、さらに奥にあった中島飛行機へと続く線路跡を左手に分けるはずであるが、どこだか気が付かないうちに目の前には広大な武蔵野中央公園が現れた。

 遊歩道はここで終わるが、公園の道路に沿って右手へと進んで行くと、JR緑町アパートの敷地が細長く連なりだす。そう、ここがかつての「武蔵野競技場前」駅跡だ。駅舎はおそらくホームの頭端部にあったと思われるが、そのあたりではこの日、フリーマーケット(Photo-14)が開催されて賑わっていた。

 ここまで来ると最寄りの三鷹駅からはかなり離れているが、一見駅前通りと見まがうほど立派な商店街(Photo-15)が、駅跡から五日市街道へ向かって伸びていた。
 この日は祭日という事で、元駅前通りを行き交うバスには日の丸の旗がはためいている。ここらは関東バスの陣地だが、旗の付け方が私の見慣れたものと違い、ボディのコーナーに一本だけというのがちょっと変わっている気がした。

 駅跡から少し足を延ばし、競技場跡へと行ってみる。武蔵野競技場は別名グリーンパーク球場とも呼ばれ、当時の国鉄スワローズの公式試合なども行われたそうだが、実質1シーズンしか使われなかった様で、競技場線もすぐに休止状態に陥ったらしい。昭和26年開業−昭和34年廃止となっているが、開業翌年以降は殆ど列車は走っていないのだと思う。

 競技場の跡地は現在「公団緑町団地」となっているが、そもそも「グリーンパーク」という呼び名は、占領軍がつけたものが元になっているらしい。
 競技場自体も廃止になって久しいが、現在も団地内の道路の一部がスタンドの丸い形状に沿った形で残っており(Photo-16)、またグランドにあたる部分の敷地も丸く、心なしか周囲より地形が一段低くなっている様に見えた。

Map
左:S33年頃/右:現在

 さて本来の引込線の終点である中島飛行機武蔵製作所だが、武蔵野中央公園の北側に広がるNTT武蔵野研究開発センターがその跡だ。
 ここから、田無市にあった中島航空金属エンジン工場(現在は住友重工田無製造所)へと向けて簡易軌道があったわけだが、これについてはまた次の機会に。

 ただこのあたりの情報については武蔵野市・田無市・保谷市が調査を行い、その報告は「多摩のあゆみ」第79号「特集:戦時下の多摩」(たましん地域文化財団発行)に掲載されているそうなので、入手可能な方は参考まで。

 帰り道はパラつく雨の中を境浄水場から多摩湖へと続く自転車道を走り、途中のコンビニで食材を調達。狭山公園でお昼を作ろうとしたところで初めて、食器のコッへル一式を家に忘れて来た事に気づくのであった。うぅむ。。。


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