1997/02
京成電車の思い出 Banner

 私は千葉の船橋で育ちました。最寄り駅は新京成電鉄の高根公団駅。今でこそ新技術の粋を集めた最新鋭な車両が活躍していますが、その頃のしんけーせーはハッキリ言ってボロでした。京成のお古の電車ばかり、釣掛けモーターの音を思いっきり派手に鳴り響かせながら走っていたのです。たまの遠出で京成電車に乗るたびに、その格差をヒシヒシと感じていた少年時代の私。京成電車が好きになったのは自然の成り行きです。

3000形

 京成電車は、まずその塗り分けがお気に入りでした。その当時はまだ旧塗装車の「青電」も走っていましたが、「赤電」と呼ばれるファイアーオレンジの胴まわりをした新性能車は実にいきいきとして見えました。この電車は、いつも乗っている新京成や総武線の国電と違って加速性能が良く、発車するとグイグイと体を引っ張ってすぐに高速域に達する所は「すごいなぁ〜」と感じさせました。台車が高性能なためか車内も静かで、揺れもクッションが効いていて何か高級な印象を受けていました。

3050形

 この頃京成電車に乗るのは、もっぱら遊びに連れていってもらう場合が多く、船橋ヘルスセンター、谷津遊園、潮干狩り、などなど。どれも今はなくなってしまいましたね。そう言えば、昔は京成電車の車窓からも海が見えていたのです。京成に沿って走る国道14号のすぐ裏手はもう海でした。

 谷津遊園地には長らく、かつてのロマンスカー開運号1600形の車体が展示されていました。京成にもこんな特急が走っていたのかと感心すると同時に、その時走っていた、通勤車を無理矢理セミクロスシートにした様な開運号が少し寂しい気がしたのも事実です。京成にも再び本格的な特急車が欲しいな。いつもそう思っていました。その後、京成が一躍空港アクセスを担う事となり、初めて津田沼第二工場でAE車に対面した時の喜び。今もはっきりとおぼえています。

AE

 高校は国府台が最寄り駅でしたので、毎朝通学で京成電車に乗っていました。津田沼から船橋までの間は地獄でしたが、通勤客はだいたい船橋で国電に乗り換えてしまい、そこから先は学生が多かったです。沿線に女子高が集中していたため、なかなかに楽しい道中ではありました。この頃やっと冷房がやって来ました。京成初の通勤冷房車、3500形の登場です。前面のスタイリングはいまいちでしたが、なんと言っても冷房とステンレス車体という点が、やっと京成も他の大手並みになったなぁと感じられて嬉しかったのを覚えています。

3500形

 それまでの京成車はおでこのヘッドライトが特徴でしたが、この冷房車は窓下にそれが付いているのが異なりました。ある日、学校帰りの私と級友は国府台駅で下りの電車を待っていました。まだ昼間の暑さが地面から湯気を立てている、そんな夏の夕暮れでした。遠くからヘッドライトを灯けた電車がガタンガタンと江戸川鉄橋を渡って来るのを見ていた友人は、冷房車だと言って喜びました。ヘッドライトが窓下で光っていたからです。ところが私は、どうも雰囲気が3500形とは違うな〜と思っていました。案の定、ホームに入って来た編成は、珍しく東中山まで足を伸ばして来た都営の5000形で、友達はがっかり。でも私は珍しいのに乗れて、一人ニンマリとしていたのです。

 大学は千葉の方だったので、今度は千葉線との付き合いが始まりました。時々浮気をして国鉄の定期を買った事もありましたが、新津田沼での新京成から国鉄への乗り換えが面倒くさく、だいたい京成で通っていました。この頃のハイライトは、何と言っても津田沼〜幕張間での国電との競争です。今日は勝った、今日は負けたと一喜一憂したのも懐かしい思い出です。この区間は見晴らしも良く、荒涼とした風景のかなたにキラリと東京湾が光ったりして、私の最も好きな場所です。空気が澄んでいる日は富士山も見えていましたが、果たして今も見えるんでしょうか。

3100形  3300形

 その後私は就職のため、千葉を離れてしまいました。京成電車の色も何度か変わり、オレンジ一色はどうも私はしっくりこなかったですが、今の赤と青の塗り分けは気に入ってます。スカイライナーも二代めAE100となり、最初のAE車は通勤車3400形に改造されてしまいました。船橋への帰省も車で行なう事が多い昨今ですが、また機会を見ては昔を思い出しながら乗って見たい電車です。

3700形

AE100

ButtonBack to Rail Page   Button京成電鉄ホームページ