2. 蓮田~神根

田畑と比べて住宅の比率が再び徐々に増えてくると、やがて岩槻の街区へと入って行く。 岩槻と言えば人形の街として有名だが、今のところ走っている周辺でその気配は無い。 あるいは駅前あたりまで行かないとそういった店は見かけないのかも知れない。 遠くに野田線の高架橋が見えてくると、武州鉄道はやや右にカーブしつつ大型スーパーの敷地を通過した後、そのガード下を抜けていく。 ここに線路を敷設したのは武州鉄道の方が先なので、後から来た東武野田線(当時は北総鉄道)はそれを跨ぐ構造とするのがこの世界のセオリーである。 その交差部、以前は12本の橋脚を連ねたガードであったが、そのうち武州鉄道の潜っていた部分は他と少し異なり、桁下高を稼ぐ様な形態をしていたという。 それも野田線のこの区間が複線化される際に架け替えられてコンクリートの高架橋となったが、交差部分のみは鉄橋となっているのが、かろうじて当時の面影を残している。 野田線も以前はほとんどの区間が単線で周囲も長閑な風景が続いていたが、昨今は通勤圏内として新興住宅地も増え、愛称も「アーバンパークライン」と都会的なものが付いた。

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武州鉄道跡 [ ON | OFF ]
国土画像情報(国土交通省)より
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ちなみに野田線は実家のある船橋市内も通っているので、東武の中では唯一私に縁のある身近な路線だ。 確か小学校の修学旅行も、船橋駅から野田線に乗って日光へと向かったのである。電車は快速用6000系あたりの団体列車運用だったと思うが、私としては垂涎の的である特急車のデラックスロマンスカー(DRC)に乗りたいとの思いが強かった。 そんな憧れのDRCが岩槻市内に保存されていると聞き、せっかくなのでちょっと寄り道をして来た。 場所は岩槻城址公園の片隅で、東武博物館のものと違いカットモデルでなく、先頭車がまるまる1両置いてあるのが見ものだ。

photo 写真22. 昔はこの真ん中あたりに橋脚があり、その右手側を武州鉄道が潜っていたらしい
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さて、この公園を訪れた理由はもう一つ、食事のためというのもある。 園内の会館で出されている「豆腐ラーメン」というのが、昨今はご当地グルメとして人気があるらしいのである。 食事処は公共施設内の休憩所といった趣で至って庶民的だが、私にとっては入店しやすいのでかえって気が楽だ。 豆腐とラーメンはミスマッチな予感もしていたが、実際食べてみるとこれが意外といけるのであった。 B級グルメ選手権でグランプリをとった事があると言うのも、頷ける美味しさである。

とりあえず腹もくちくなったところで、午後の探索を続けよう。 野田線の線路下を潜った先はちょっとした小路になっており、そこには「武州鉄道の小径」の表示板が立っている。 武州鉄道の名を記載した看板は、全線に渡って探してみてもおそらくここだけでしか見つからないであろう。 このあたりは路地というか、その脇に連なる宅地の列が線路跡だった敷地のようだ。

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武州鉄道の岩槻駅跡は先程訪問した城址公園の南西、太田小学校敷地の西隅あたりだ。 今では東武の駅がこの町の表玄関だが、当時はこの付近が街の中心地だったのであろうか。 岩槻駅を発車した汽車は小学校の校庭の位置を斜めに抜け、ここからは南東へと向きを変えて進んでいく。 岩槻の市街地を抜けるとしばらくは県道324号線に沿って南下、真福寺駅跡はゴルフ練習場となっている。 県道から途中で別れたあたりに浮谷駅があったが、このあたり、畑中に当時の築堤の面影を感じ取れる区間が若干だが残っている。 その先は目白大学正門へと続く真っ直ぐな道路、敷地内はさすがに立ち入れないが、裏手には線路跡らしき空き地がキャンパスの方から出て来ている。

photo 写真31. 大学キャンパス裏手の廃線跡。雑木林の線路跡部分が左右に割れているのが分かる
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そこから台地を一段下る形になって下の平野に降り立てば、線路跡は主にオークション用の自動車置き場として活用されており、咲田駅があったのもその県道南側の一角である。 川を渡って周囲に工場や流通センターなどの建物が多くなってくると、再び目の前には東北道が行く手を遮る。 その手前で伝右川という小さな川を渡る部分に当時の橋台が残っていたそうだが、その後の土地造成によりこれも撤去されてしまっている。

このあたりは「みそのウイングシティ」の一部として大規模な区画整理が行なわれ、宅地や商業施設が次々と出来ている。 なにしろ川そのものが暗渠化されて地表から無くなってしまう位にダイナミックな土地造成が行なわれているので、廃線遺構など容赦なく消えてしまうのだ。 ここから先は線路跡の敷地がそのまま東北道に取り込まれており、トレースするにはその側道に沿って進むしかない。 仕方がないので車窓から景色を眺めているつもりで、左手の風景を堪能しつつ終点へと向かおうか。

武州野田駅跡は大型電器店のあたりかと思われるが痕跡はもちろん皆無、埼玉スタジアムの脇を通過してさらに南下する。 線路跡の近くにある重殿社境内には、停車場道路建設記念碑が建立されている。 線路を見下ろす小高い丘からは、通過していく小さな汽車が眺められたのかもしれない。 ここからは、武州鉄道の目指した都心延長路線の生まれ変わりとも言える埼玉高速鉄道の終点、浦和美園駅も近い。 埼玉高速鉄道線は岩槻延伸構想もあったようだから、まさしく武州鉄道のルートを踏襲している。 このあたり、廃線跡には何も残っていないので電車基地でも覗いてみるのが吉である(ダジャレwww)。 ついでにもう少し脇道にそれると、メディア等でもよく紹介されている名物の目医者さんもあって楽しい所だ。

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廃線跡に戻って、武州大門駅。 一時期は終点だった所なので、それなりに大きい駅であったのだろう。 ここには当時の駅前食堂がいまだに営業中との記事を見ていたのだが、それらしき建物が今はピアノ教室となっていた。 そこから進んでいくとだんだん通りの車も多くなってきて、周囲は俄かに大都会の雑踏へと踏み込んでいく空気が感じられる。 東北道と直行する大きな道路との立体交差では、車道はそのまま直進するものの自転車は車道を避けるために迂回させられ、坂を上り下りして地下道を抜けたりで行路はなかなかに捗らない。

武蔵野線の下を潜ればいよいよ終点も近い。神根駅のあった一帯は大きな石神交差点となっている。 ここまで来ると道路も大河の流れのごとく、長い信号で待たされた後に一人チョコチョコと自転車で渡る廃線ウォッチャーなのだった。 ようやく到着した終着駅、だが付近はコンビニ等の広大な駐車場と化し、機関車が屯していたであろう郊外の長閑な終端駅風景は、想像する事すら容易ならざる世界へと変貌していたのである。 帰路は浦和美園まで戻って未乗の埼玉高速鉄道を体験しようかとも思ったが、距離の割に結構疲れたので、東川口からそのまま武蔵野線に乗ってしまった。

photo 写真40. 車がひしめき合う石神交差点。信号向こうの一帯が神根駅跡のようだ

エピローグ

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今となっては特に際立った遺構が残っているわけでもないが、全線に渡りその痕跡を数多く見せてくれる武州鉄道跡。 勾配箇所もなく沿線に見所も多いので、自転車での軽探索には向いている非常にポピュラーな廃線と言えよう。 ただし、地上からはなかなか分かりにくいので、探索にあたってはスマホ等のGPS機能に頼るのが良いようだ。 今回の私の取材も、Googleのマイマップで予めルートをマーキングし、それに沿って移動するという手法で、かなり助けてもらった結果なのである。 もちろん、純粋に発見する喜びを心から味わいたいなら、そういったツール無しに自分の勘で動くというのも又、一興なのは間違いない。

(おわり)