プロローグ

今回取り上げる武州鉄道、その存在は以前から気になっていたものの、残念ながらこれまで訪問する機会がなかったのは、割と身近なロケーションに存在する為いつでも行けるだろうとの油断があったからなのかもしれない。 書籍等によく記載されている遺構もあらかた撤去され、交差地点の東武野田線の鉄橋も既に架け替えられてしまったようで、いまさら感もあってあまり行く気が起きなかったと言うのもある。 開通時には大部分の区間が郊外の田園地帯を走っていたこの鉄道も、その後、急速に発展する東京に隣接する市街地の中へと埋没してしまったのだ。

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武州鉄道跡 [ ON | OFF ]
国土画像情報(国土交通省)より

だが、改めてその付近の空中写真を覗いてみると、廃線跡が街区の連続する区割りとなって思いの外よく残っているのに気付かされ、俄然興味が湧いてきたのである。 蓮田から岩槻を経て川口にあった終点神根駅手前あたりまで、戦前に廃止された鉄道が、上空からの写真でほぼ軌道敷を追うことが出来ると言うのは奇跡に近いかも知れない。 これは一度行ってみるべきだと考え、大分くたびれてきた我が廃線探索の相棒マチレス号を連れ出して、久方ぶりの「お出かけ」を敢行する事と相成った。

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[▼開く] 武州鉄道について
年号沿革
1924(大正13)年 蓮田~岩槻 開通
1928(昭和3)年岩槻~武州大門 延伸 
1936(昭和11)年武州大門~神根 延伸
1938(昭和13)年全線廃止

武州鉄道は当初、東京~日光方面を結ぶ構想で設立され、主な経由地は北千住~川口~岩槻~幸手~栗橋~古河~今市という遠大な計画であった。 その後、岩槻~蓮田~騎西(加須)~羽生、忍(行田)の延長線を新たに追加し、 第1期線として川口~岩槻間が1912年に着工されるが期限までに工事が終わらず、資金を得る為に第2期線の岩槻~蓮田を先行開業させる事にした。 開業後は順調に路線も延びていったが、都心へと線路を繋げる事が出来なかった為に業績が上がらず、加えて世界恐慌や日中戦争の勃発などにより資金繰りが悪化して廃止へと向かった。 武州鉄道には一時期、京成電軌の創立者である本多貞次郎も在任していたというから、もし残っていたら京成が埼玉方面へと路線を伸ばす足掛かりとなっていたかも知れない。

1. 蓮田~岩槻

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早朝の電車を乗り継いで、スタート地点の蓮田駅にやって来た。 蓮田は初めて来た街で、今まではこれといって印象が無い。 それは蓮田の人にとってわがホームタウン青梅の印象が薄いのと同じで、お互い様である。 ここでそんなことを弁じていても仕方が無いので、さっさと自転車を組み立てて出発をしよう。 蓮田だけでなく、これから武州鉄道の線路跡に沿って向かう岩槻や川口も、自分としては未知の世界なのだ。 きっとこれらの場所も今日を機会に、私にとって記憶に残る街となる筈である。

例によって駅に出入りする人々に好奇の目で見られつつ組み立てを完了し、冬空のもとサドルに跨りボチボチと走り出す。 朝はまだ寒いが、晴れているので日中は暖かくなってくれることを祈りたい。 さて、多くの廃線の鉄則にのっとり、ここの線路跡も既存の鉄道敷地より分岐するカーブから始まっている。 駅跡自体は駅前広場等に取り込まれてしまって跡形もないが、駅構内から出てくる路盤は微妙な曲線を描いた駐車場として今も残っているのである。

早速撮影をと胸ポケットからカメラを取り出す、と手袋の指が滑り、「ガシャッ」という音と共に地面に落としてしまった。 うゎヤバッ…、と思いつつ電源を入れると「レンズエラー」と出た。 ガーン、万事休す。 以前、取材に行った先でカメラが故障し、フィルムの時代だった当時、急遽「写ルンです」を購入して急場を凌いだ事を思い出す。 今はスマホがあるから何とかなるが、やはりコンデジが無いのはつらいなぁ、と思いつつレンズの鏡筒を捻りながら何度か電源のオンオフを繰り返すうち、カコっと感触がして正常に動き出した。 ヤレヤレ、何とか大丈夫そうだ。

photo 写真5. 雑木林の中へと突入して行く線路跡。この付近は、いかにもな雰囲気でなかなかの景色
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駅前を離れると、その先はさすがに蓮田駅前の街区に紛れてしまって分かりづらいが、一部家屋の向きが周囲から不自然に浮き立っていたり、駐車場や空き地となって残っているのが線路跡と思われる。 再び本格的にトレースする事が出来る様になるのは、駅を離れてしばらく進み民家が少なくなって来たあたりから。 線路跡と思しき草地は雑木林の中へと真っ直ぐに突入して行く。 そこを抜けたあたりに最初の馬込駅があったのだが、今は材木店の敷地となっている。

道路を渡ったその反対側は、フェンスに囲われた細長い空地が線路跡と分かる。 さらにディーラーの中古自動車置場を横断し、そこから線路敷は狭い舗装道となって一直線に東北自動車道の方へと向かって伸びている。 もちろん当時はここに東北道など存在しなかったから、一旦分断された線路は向こう側の延長線上に何事も無かったかの様に続いているのであった。

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東北道を過ぎると、線路跡は立派な車道となって岩槻へと向かう。 途中の河合小学校前では、道路左右の校舎施設を繋ぐ空中の通路が、まるで跨線橋の様に見えた。 その先の河合幼稚園では、車庫の奇抜な意匠の屋根がそのまま線路の跡を示している。 人影の無いのをいい事に、その前にしばらく佇み、背後からレールの上を迫って来る蒸気機関車のブラスト音を妄想してみる… スタンド・バイ・ミーの世界… 危ない危ない、こんな路上でニタニタしてると不審者と間違われるから先へ進もう。

その裏手からは、畑の中に一直線の境界石が連なって伸びている。 周囲の区割を無視して、斜めの角度をとったまま進んでいくので、明らかにそれと分かる。 そのまま追っていくと、付近の道路が変に屈曲している箇所があるが、位置的に河合駅の駅前なので鉄道敷地をとる為に曲げられたものかも知れない。 駅跡自体は斜めに配置された町工場の長い建屋、そして小さな運動場の様な小広場となって残っていた。

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このあたりから周囲は郊外の住宅地というよりさすがに農家や畑地が多くなって来る。 開通当初はおそらくこんな風景がずっと続いていたのだろう。 そんな中をしばらく進むと、「鉄道廃線跡を歩く」でも紹介されている平林寺公民館の前に到着した。 ここは入口の通路が廃線跡そのものだ。 ヒッソリと誰もいないだろうと思って来てみたが、入口の前では地元の皆さんが大勢集まってワイワイと雑談しつつ待っている。 これから何かの集会が始まるみたいだ。 そしてこの場所で蓮田方面を振り返れば、武州鉄道の名所(?)ともなっている白馬の像が、旅人の安全を見守っているのである。

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