荒川はその名のとおり、かつて「荒れる」川であった。 なかでも明治末期に発生した関東大水害は、埼玉県や東京府など流域各地に甚大な被害をもたらした。 これにより政府は本格的な水害対策の必要性を認識し荒川放水路の建設に着手、1913(大正2)年から17年の歳月をかけ1930(昭和5)年に完成へと至るのである。

経路は岩淵水門より千住の東側を通して東南へ進み、東京湾は中川河口までの開削とした。 当時農村部の土地が中心であったがこれだけの規模の工事なので、多くの家屋や道路、また鉄道施設等も多大な影響を受けた。 1910(明治43)年に浅草(現・とうきょうスカイツリー)駅~伊勢崎駅間が全通していた東武伊勢崎線もその一つであり、線路付替が発生した。

付替えしたのは2箇所。 まず鐘ヶ淵~堀切駅を含むカーブが放水路敷地にかかり、そこを避ける形にショートカットで直線化した。 次に、北千住駅から常磐線の上を乗り越えて西新井方面へ向かう部分の立体交差が、国鉄もろとも放水路ど真ん中となり変更を余儀なくされる(常磐線も線形変更)。 ここは川の上でオーバークロスさせるわけにも行かず、直線で鉄橋を渡ってから常磐線の上を通すというルートとなった。 その為、鉄橋東側から西新井駅にかけても新線に移すという大規模な工事が行なわれている。

ちなみに京成の押上線も線路付替をしている(「墨東軌探」にて掲載)が、上野へ向かう京成本線は昭和に入ってからの敷設であり影響を受けていない。 また総武本線もルートは変わっていないが、当然ながら架橋工事が発生した。 放水路開通以前の旧荒川下流は現在の隅田川、荒川放水路自体も1965(昭和40)年になって正式に本流とされ、「荒川」と呼ばれるようになった。

(クリックで昔の地図を表示)
国土地理院発行1/5万地形図
「東京東北部」昭和52年
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国土地理院発行1/5万地形図
「東京東北部」大正8年

浅草から東武に乗って鐘ヶ淵に着いた。 浅草~北千住間は伊勢崎線の一部だが、スカイツリー駅を除くと浅草支線とも呼びたい位に各駅はローカルな空気に満ち溢れている。 カネボウ(鐘ヶ淵紡績)創業の地である鐘ヶ淵駅もそうだ。 優等列車がノロノロと走って行く通過線を挟み、緩くカーブした上下の対向式ホームが離れて配置されている構内は、なんだか間延びしていて長閑な佇まい。 しかもポイント配置の関係で電車はホーム後端の駅舎から遥か離れた前方に停車するから、撮影の都合で先頭車両に乗った私は、改札に着くまで延々長いホームを歩かされる羽目になった。

駅を出ると、人と車で雑踏する駅前の踏切には警官が出て車の流れを監視している。 いや踏切と言うよりここは交差点で、その変態さ加減は以前のレポートでも紹介している。 だが踏切を渡って荒川を目指すべく一本裏通りに入れば、目だった車の流れはなくなり、休日昼下がりの下町は森閑として人の歩く姿もまばら。 路地から出て来た日傘のお嬢さんの歩く靴音が、カツカツと古い家並みに反響している。

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□Photo-1鐘ヶ淵駅から北千住へ向かう電車は左カーブで発車。前方には荒川の堤防が見える。
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□Photo-2荒川堤防から鐘ヶ淵駅を俯瞰。経路変更により構内全体が急カーブ状になった。

数ブロックほど進むと空が広がり、目の前には堤防が現れる。 斜面に付けられた坂道を登って行くと、広い河川敷の中に荒川の流れが望めた。 対岸には上下2段になった高速道路が走っており、その中を車の影がゆっくりと流れている。 振り返れば線路がこの堤防の下でカーブし、それに沿って北千住の方へ延びているのが見える。 昔はカーブせずにこの堤防へ向かって来ていたのだな、と想像を逞しくするも、何しろここに川自体がなかったのだから当時の姿を思い描くのもなかなかに難しい。

グランドでスポーツに興じる人々を見下ろしながら、堤防の上を北千住方面へ歩いて行く。 左手下には線路が並んでいて、上り下りの列車が頻繁に通過してゆく。 東武の車両は通勤車ばかりでなく、近郊型や特急車などバラエティに富んでいて面白い。 さらに、乗り入れている半蔵門線や東急の車両もやって来るので、見飽きることなく楽しめる。 しかしこの区間、線路向こうの街並みからこちらへ渡って来る踏切が一箇所も無いが、そういう道筋は必要がないのだろうか?

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□Photo-3堤防上から眺める荒川の流れ。旧線はこの中央辺りまで出っ張る形でカーブしていた。
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□Photo-4東武伊勢崎線は荒川堤防にピッタリ寄り添う形で走っており、その間に余地はない。

10分ほど歩いたろうか、行く手に水門が見えて来て、その向こうには鐘ヶ淵と同じようにカーブをした堀切駅のホームが横たわっている。 近くまで行くとちょうど上りの電車が着いた所で、堤防下に口を開けたホーム背中の改札から人々が出て来た。 驚いたのは駅出入口が堤防上の道路に階段で直結している事で、駅前広場もなく当然ながら車は乗り入れられない。 駅構内も上下のホームは完全に分離していて、降車客は近くに架けられた歩道橋で線路の上を越さないと街の方へは出られないのだ。 この堀切駅、線路付け替え前は今より東側の荒川放水路敷地内にあったわけで、実際「堀切」という地名は川向うに残っている。 あちらの堀切から川を渡ってこの駅まで乗りに来る住人はいないだろうが、今は駅に隣接して大学が出来ており、そちらへ向かう学生の姿もちらほら見える。

国土地理院発行1/5万地形図
「東京東北部」昭和52年 map

堀切駅を過ぎると線路は、スカイライナーが行き交う京成線の高架下を潜る。 おそらくこの先あたりが旧線との合流点で、扇型に広がる駐車場の区割りがその面影を残しているのかも知れない。 ちょうどその合流点と思しき目の前に「柳原千草園」と標識が出ていたので、休憩を兼ねてちょっと入ってみた。 入口付近にはまだ桜の花が残っており、期せずして思わぬところで遅い花見が出来た。 奥手には小さな池もあり、その脇の湿地帯には色とりどりの花々が人知れず見頃を向えている。

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□Photo-5堀切駅上りホームは出入口が堤防道路に直結している。乗降客はこの階段を使わなければならない。
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□Photo-6京成高架下の新旧線合流点付近(画面奥手が北千住方面)。旧線は右手後方から寄り添って来ている。

ベンチに腰掛けて一休みしていると、「ちょっと、あんた!」と後ろの方で怒鳴り声がして体が一瞬ビクッとなった。 振り向くと私ではなく、歩いていた老人が公園の係りの人に呼び止められている。 「いま缶を捨てたでしょ」「いや、ちゃんと持ってますよ、ホラ」 「あら、ほんとだ、こりゃ失礼。最近そこらに投げてく人多くてねー」 「それは困ったもんですね。昔はそんな人いなかったんだけど、ここいら」 最後はお互い手のひらで挨拶し、笑いあって別れていった。 成り行きを見守っていた私はホッとしてベンチを離れ歩き出す、その視線の先を白いボンネットのスペーシアがゆっくりと通過して行った。

公園を後に次の牛田駅へと向かう。 途中に線路下を潜る天井が極端に低い道路があり、こういう時は無意識に首をすくめてしまう。 桁下1.7mだから残念ながら私の身長では問題なく通る事が出来たのだが。 牛田は向いに京成線が出来てから連絡用に設けられた駅だが、そのせいか先ほどの堀切駅との間はごく至近になっている。 連絡しているわりに目の前の京成関屋とは駅名が異なっており、そこはそれぞれ独自の考え方があるようだ。

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□Photo-7堀切~牛田駅間の線路脇にある足立区の柳原千草園。葉桜ぎみではあるが、まだ桜が見頃であった。
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□Photo-8牛田駅手前の陸橋は桁下高1.7メートルだ。開通時からのものか、橋台はドッシリとした煉瓦で出来ている。


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