5万図『川越』の片隅にユガテという実に変わった地名がある。 低山中心のハイキングガイド等によく出てくるが、「村といっても2軒の農家と若干の畑のある、外界と遮断された桃源郷である。」等と書かれている。 高麗から顔振峠に至る林道を少しそれた所にあり、奥武蔵自然遊歩道のルート上でもあるのだが、日帰りツーリングとしてはちょっと物足りない距離だし、ポタリングとしては遠過ぎる位置にある。 かねがね行ってみようとは思っていたが、なかなか実行に移せずにいた。 しかし、ユガテという名に何か引かれる物を感じ、ある日思い立って出かけてみた。

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10月も終りの日曜日、子供達の目が覚めない様にふとんを抜け出し、近くの店で朝食兼昼食のお握りを買い入れる。 今日は小春日和ともいえる良い天気でつい薄着で出かけて来たが、さすがに風を切って走ると寒い。 背中にポカポカと日射しを感じられる程度の速さで、まずは飯能へと向かう。

現在私は青梅に住んでいるが、この土地はサイクリストにとっては最高のロケーションだと思っている。 それは、奥多摩は言うに及ばず、奥武蔵、秩父、高尾といったエリアにも自宅から気軽に走って行けるし、しかも都心から放射状に伸びる幹線道路を、車の排気ガスを浴びながら走る必要のないという理由からでもある。

近い所では、朝練と称して御岳渓谷まで軽く朝飯前に往復したり、昼近くに起き出しても、天気が良くてもったいないのでちょっと五日市の方へポタリングしてみようとか、究極は、子供達が昼寝してる間に裏の七国峠に駆け登り、景色を眺めながら紅茶を一杯(出掛けに自販機で買っても熱いうちに着く)、等という芸当も出来てしまうのである。 反面、冒頭にも書いた様に、フィールドが近過ぎて物足りないという贅沢な悩みもないことはないが。

そんなわけで、飯能市街を対岸に見る入間川にも20分程で着き、河原のベンチでお握りを頬張る。 ジョギングをする人が三々五々集まって来て、毎朝の顔馴染なのか声をかけ合っている。 向うのグランドでは早朝野球の準備も始まり、いかにも平和な日曜の朝である。 橋の上を八高線の赤い気動車が、ゴーッと音を立てて飯能へと下って行ったのをきっかけに、自転車を起こした。

飯能市街を抜け、西武線沿いに軽く丘を越え、高麗駅前を右折し、橋を渡ると巾着田のたもとに至る。 ここは、奈良時代に高麗より帰化した人々が、川の蛇行した内側の土地を耕して田にしたもので、日和田山より見下ろすと文字通り巾着の形をしているのが良くわかるそうだ。 Y字路をさらに細い道に入り、日和田山の麓を少し進んで左折すると、いよいよ登りの始まりである。

林道とは言っても、グリーンラインと同じく立派な舗装が伸びている。 民家がまばらになってきた頃一度砂利道になったが、5分程登ると又舗装の道に戻った。 勾配はさほどでもないが、途中で結構な切り返しが遥か上の方に見えたりして、なかなかプレッシャーを与えてくれる道だ。 おまけに、一度ほぼ物見山の頂上近くまで登った後に大分下ってしまったりして、がっかりさせられる。 時々チラチラと関東平野の眺望が拝めるのが唯一の救いだ。

登り返して、ようやく鎌北湖から登って来た林道を合わせ、さらに進むと武蔵横手から登って来る道と合流する。 親子連れのグループが大勢で丁度登り着いた所で、辺りに明るい歓声が響いている。 立ち漕ぎで「ワーッ、すごい!」と子供達に言わせ、コーナーを回った後は又もとのスローペースに戻る。 北向地蔵前を過ぎるとやがて左手に案内板が立ち、「ユガテ」と読める。山道に少し入った所の路傍の倒木に腰掛け、一服。 とは言っても煙草はやらないので、お菓子で間を持たせる。

今日は暖かくなって良かった。走りに出て何が一番楽しいかというと、夏は樹陰の昼寝、冬は日だまりの日向ぼっこと決まっている。 ステムが日射しを反射して鈍い光を放っている。 しばし何を考えるでもなく、ボーッとそれを眺めていた。

ボトルを収め、さて出発。車の轍の跡がしばらく続くが、突然大きなグリーンのビニールハウスの様な物に行き当たり、その先の踏跡が見えない。 少し戻って探すと、左手に階段状に下る道が有り案内板が立っていたが、下って行くとすぐ下に二軒の屋根が見えて来て、どうも庭先に出そうな雰囲気である。

しばらく戸惑って辺りを観察していたが、その先の畑の中にも案内板らしきものが見えたので、勇気づけられて降りて行った。 丁度、家の裏庭に下り立った様な形になり、門前をソロソロと横切り、前の畑で本来のハイキング道に出て右に曲がると、トイレの有る小広場に着いた。 帰ってから気づいたのだが、先程の階段の上に有ったビニールハウスはこの家の車庫であった様で、桃源郷とは言っても裏にはやはり現実の生活があるのだ。

しかし、ここからの眺めはまさに山々に囲まれた幽玄の世界であり、ガイドの記述も納得出来る。 下から老夫婦のハイカーが登って来て、いつもながらのやりとり。 「こんにちはーッ」「まぁ自転車で...ご苦労様。」「それどこでも走れるやつだよね。」「えぇ、人が手を着かずに歩ける所なら大抵走れますよ。」我ながら適当なことを言っている。 彼らに道を尋ねられ、思わず自分の来た道を答えてしまったが、しばらく休憩しているとその家の主人と歓談している様子で、何やら笑い声が里中に響いてきた。

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腰を上げ畑の尽きる所まで進むと、尾根を外れ森の中の急降下の道となる。 先程のハイカーの仲間らしい年配のグループが登って来たので、しばらく道を開け挨拶を交わす。 みんな一様にフーフー言っており、ここまでかなりの登りの様だ。 暗い森の中をチェーンをカンカン言わせながら、何度か折り返して下って行く。 砂利道に合流し、ザザーッと下るとすぐに舗装道路に出た。 そのまま西武線沿いに武蔵横手まで戻ったが、さてまだお昼前だ。 家には3時頃までに戻ると言ってあるので、もう少し自由を楽しむ事にしよう。

駅前(と言っても何もないが)で左の細い舗装路に入り、尾根上で今朝の林道を越えて、鎌北湖まで出る事にする。 実はこの道は、前に正丸方面から帰る時にちらりと横目で見ると、ハイカーが楽しそうに歩いていて、よさそうだなと目を付けていたのである。 都心からの電車が着いた直後らしく、若者のグループや親子連れが、道端の草花等を観察しながら登り出した所であった。 何かの大会が催されているらしく、幹に「ガンバレ」とか「ここを左に」とかの小さな板切れが縛り付けてある。 それらに元気付けられて登って行くと森が切れ、明るい山上集落の中を行く道となる。 顔振の登りに似た展開で、一瞬錯覚に陥る。

村外れから一汗かく頃、尾根上の道と合流した。 リュックを降ろし、背中の汗の引くのを待って下りに入る。 林道とはいえ、結構登って来る車が多いので気が抜けない。 いくつかのカーブをこなし、最後にググッと右に回り込んで湖畔の道に出た。 ここ鎌北湖は一度来た事が有り、かなりこじんまりした静かな所だという印象が有ったが、今回はダムの周辺を工事しているせいか、多少ざわざわしている。 別名"乙女の湖"は笑わせてくれるが、人工湖らしからぬ落ち着きが有って私は好きだ。 ダム脇の売店でウーロン茶を仕入れ、堤防に座ってボートを眺めながら一息入れる。 距離的に家が近く余裕があるせいか、やたらと休憩が多くなってしまう。

鎌北湖から下る坂で唯一会ったサイクリストに片手を上げ、平野部へと一気に駆け降りる。 命をかけて?突っ走る下りもなかなかゾクゾクして魅力的だが、ブレーキも引かずペダルも踏まないで適度に風景を楽しみながら下れる坂は、今日の気分に似合っている。 八高線沿いの道に出る前に、右の脇道に入り小さな丘を越え、さらに裏道裏道とつなげて高麗に戻るが、このあたりの斜面は又ゴルフ場の数が増えたようだ。 あれだけの広大な空間をゴルファーだけに占有させておくのは、実にもったいない気がする。

高麗では昼頃からマラソン大会が行なわれるという事で、沢山の人がウォーミングアップしている。 少し休憩して見物していこうかとも思ったが、おなかもすいてきたので先を急ぐ。 高麗神社で少し休憩した後、帰途に就く。 朝のお握り一個を燃料として走って来たせいで、家近くまで来てハンガーノックに見舞われたが、チョコを口に放りこみながら、お昼少し過ぎに何とか玄関にたどり着いた。

「ただいまーッ。」「バタバタバタッ」子供の飛び出して来る音である。

■この記事はニューサイクリング1990年6月号に掲載された原稿を元に、加筆修正したものです。(2011/10)