Apr 2011

幸せの黄色いニシキ

以前、BENOTTOのロードについて書いたが、これは私が社会人になってから買った2台目の自転車で、セミオーダーである。 では最初に購入したのは何かというと、今回お話するニシキのスポルティフ、これが完成車で初めて手にしたスポーツサイクルという事になる。

小中学生の頃に乗っていた自転車は、実家の近くにあった自転車屋の関係で大体「フジ」であったが、他にも「ブリヂストン」とか「丸石」なんてのがある事は知っていた。 だが社会人になって自転車に目覚め、購入検討用に買い始めた雑誌の広告欄には、これまで見た事も無いようなメーカーの名前が色々と並んでいた。

その中で私の琴線を大いに刺激したのは「カワムラNISHIKI」のスポーツ車。 関西では比較的ポピュラーだったのかも知れないが、関東では自転車に精通する人以外はあまり一般には知られていないメーカーのものだった。 掲載されていた中でツーリング車として価格的に最上級は「グローバル・ツーリング」、その下が「グローバル・スピード・ツーリング」、そして私の買ったエントリーモデル「グローバル・スピード」は最廉価車だ。

photo 当時のサイスポ臨時増刊

巻末広告なのでモノクロの印刷だったが、私の頭の中の画像には明るい黄色の車体というイメージが既に出来上がっていた。 もちろん、その通りの色でショップに注文したのは言うまでもない。 もうとうに記憶からは飛んでしまっているが、初めてとなるサイクリング車の納品をワクワクしながら待っていた日々は、きっと幸せな時間であったろうと思う。

納車されてしばらくは、会社が引けてからの夕方に寮の近くの街中で足慣らし。 それも段々と距離を延ばして行き、周辺の丘陵地へとハンドルを向けるようになった。 滝山街道でギアチェンジにフラついて後続の車にクラクションで煽られながら、新道になる前の満地峠へと登って行ったっけ。 あそこのトンネル前にはちょとした展望台があって、多摩川の向こうに青梅から羽村あたりの街の灯が煌いていたのを思い出す。

photo 伊豆:天城峠にて(クリックで拡大)

やがて週末には頻繁に奥多摩方面へ出かけるようになり、吉野、御岳、氷川、そして奥多摩湖へと、その距離は徐々に伸びていった。 当時はまだ専用のウェア類に手を出すレベルまで行かず、夏場はもっぱらTシャツに紺のショートパンツといういでたちで走り回っていた。 青梅街道を走っていたある日、信号で中学生位の自転車に乗ったグループに追いついた時、彼らが私の自転車を振り返り「すげー、ニシキだ!」とささやいたのが聞こえて嬉しくなったものだ。

そしてその後輪行というものを知り、行動範囲は飛躍的に広がる事になる。 私の自転車は非輪行仕様車だったが、無謀にもリテーナーの付いていないバラ玉状態のベアリングを外し、フロントフォーク抜きの輪行を行なうようになった。 最初の輪行では駅での分解が不安で、前の晩に寮で自転車を輪行袋に詰め、それを肩に食い込ませながら駅まで大汗をかいて20分程運ぶなんて事もした。 この時は小海駅から八ヶ岳林道を走って麦草峠を越え、確か女神湖のYHで一泊、翌日は霧ヶ峰を経て諏訪湖の方へ下った気がする。

photo アパートのダイニングで

その後ロードを買ってからは通勤専用に格下げとなったニシキ号。 サンヨーのダイナパワーという、BBに付けてタイヤ踏面をこする異色のダイナモを導入し、毎朝毎晩と会社の往復に酷使していた。 雨でも構わず乗っていたので各部の痛みも段々と激しくなって来たが、そんな自転車にある日突然の別れがやって来た。 あれは寮を出て2回目に引っ越したアパートだったから所帯を持った後だな。 パンクして後で修理しようと玄関前に置いておいたら、いつの間にか無くなっていたのだ。

まさかパンクした自転車を持って行くバカはいないと思い、油断して鍵をかけずに立てかけておいたのがまずかった。 しかし考えてみれば自転車泥棒は、わざわざパンクしてるかどうか確認してから盗むなんて事はしない。 盗み出して少し走ってみた時パンクに気づいたら、おそらくそのままそこらに捨て去って行くだろう。

そう思ってしばらくの間近所をくまなく探してみたのだが、結局二度とこのオンボロの自転車が出て来る事はなかった。 こうして初代の本格サイクリング車は私の元から消え去っていったのだ。 苦楽を共にした愛車が盗まれてしまったのは悔しかったが、これで新しい自転車を買う口実が出来たとチョッピリ思ったのはここだけの内緒の話だ。

button Back to Bike page